Northern Highland
Ben Wyvis
地 域 | Northern Highland | 所 在 | Dingwall |
開 業 | 1879年 | 閉 鎖 | 1926年 |
1689年に開業したスコットランド初の蒸留所といわれる Ferintosh蒸留所は、Dingwallの近くだったらしいが、その確かな位置はわからない。
18世紀頃には周辺に4つぐらいの蒸留所があった。
Ben Wyvis蒸留所は、この地方で唯一産業として成功した蒸留所で、1879年に建設された。
Cromarty Firth(入り江)に近い急斜面の丘に位置し、鉄道とDingwallへの幹線道路が蒸留所と海岸の間に走っていた。
その当時から大きく、年間生産量は160,000gallonで自社の支線を持っていた。
敷地内の水源がなかったので4マイルはなれた Loch Ussie へパイプラインを引いた。
Alfred Barnardは1887年に蒸留所のことを書いている。 それはとても進歩した蒸留所で広大なモルティングフロア、大きなベルトコンベアとホッパー、 パワフルな水平蒸気エンジンと熱の再利用のための独特のシステムがあった。 4基の13,000gallonのウォッシュバックと4,000gallonのウォッシュスティルがあった。 そして農家がドラフやポットエールを専用のタンクから購入することができた。 その当時としては進んだ蒸留所だった。
このすばらしい設備が勢揃いしたにもかかわらず、蒸留所は波瀾万丈の歴史を持っていた。 1887年に、わずか2年後に解散する Scotch Whisky Distillers Ltd に売却された。 それから1893年にBelfast社に買収された。Ferintosh蒸留所と改名し、20年間は順調に操業した。 1914年にはFerintosh蒸留所の管理は Distillers Finance Corporation が行うようになった。 そして1922年にDCLに買収された。
DCLは1924年に Ferintosh Company を清算した。その権利を子会社のJohn Begg Ltdに移した。 けれども、事態は好転せず1926年に蒸留所は閉鎖された。建物は次第に朽ち果て、荒廃していったが、ウェアハウスはSMDによって1980年代初期まで使用された。
現在、線路わきのウェアハウスはまだ建っている。
しかし、Ben Wyvisの名は完全に消滅しなかった。1965年にInvergordon社がグレーン蒸留所の中の新しいモルト蒸留所にその名前を選んだ。
2000年にSignatory社から少数発売されたものがそれである。その蒸留所もまた無期限に操業停止している。
しかしBen Wyvisの名を再び使用することは決して不可能ではないだろう。
Gerston
地 域 | Northern Highland | 所 在 | Halkirk |
開 業 | 1798年 | 閉 鎖 | 1882年 |
Greston蒸留所は1796年に、Halkirkの近くのThurso川の川岸の、同じ名前の農場の近くにFrancis Swansonによって創設された。 その当時は多くの不法蒸留者があった地区だった。1825年、2人の息子、JohnとJames Swansonが事業を拡張し、彼らのウィスキーを幅広い市場に売り込んだ。
一族の会社は1851〜52年から閉鎖する不運に見舞われ、その後James Swansonによって再建された。 ウィスキーは非常に高い評判を得た。その名声は遠くロンドンまで伝わり、熱心な愛好家(多くは政治家)の間に広がった。 その中には1841〜1846年の首相で警察の創設者であるSir Robert Peelも含まれた。
しかし、このような名声は会社の永続性を保証するものではない。Swanson一族はJames Swansonの死後、1872年に蒸留所を売却した。 そして、記録も残されていない新しいオーナーは、事業に失敗したようで最終的に1875年に閉鎖した。そして1882年、取り壊された。 現在はその当時の建物は残っていない。わずかに低い壁が残っている。 そしてCaithnessのLoch Dubh HotelはGerston蒸留所モルトの未開封ボトルを一本所有しているという。
Gerston(New)
地 域 | Northern Highland | 所 在 | Halkirk |
開 業 | 1886年 | 閉 鎖 | 1911年 |
Gerston蒸留所の閉鎖とその素晴らしいウィスキーの損失は強い支持者のいるロンドンで少なくない悲嘆の原因となった。 そしてロンドンのある会社は1886〜87年に、Gerston FarmとHalkirk Bridgeの間の近くに第二の蒸留所を建設する計画を進めた。 経営者は自身の社名をGerston Distillery Companyとした。そして最初の蒸留所によって使用された水源、Calder Burnを利用する権利を得た。
完成すると、Gerston蒸留所はHalkirk近くや鉄道のGeorgemas Junctionあたりの寂しい地方の数マイルでは、最も目に見える目印となった。 初期の従業員の一人に簿記係として雇われていた若い時代のWilliam Grant juniorがいた。彼の次男はGlenfiddich蒸留所創業者のWilliam Grantである。 1888年、彼がSpeysideの一族の会社に加わるために帰る予定になっている直前に、腸チフスで悲惨な死を遂げた。
Alfred Barnardは開業直後のGerston蒸留所に訪れている。 その優れた建造とその当時、初めてただ一つのボイラーの蒸気熱ですべてのスティルとマッシュタン用のお湯の供給を行った、新しい蒸留所の レイアウトについて特に感心している。 必要ならば年間80,000gallonから160,000gallonまでに生産量を2倍にできる設備にもかかわらず、新しい蒸留所から作られるウィスキーはロンドンの愛好家を引きつけるのに失敗しただけでなく、 十分な資金を作るのにも失敗した。そして1897年、Northern Distilleries Ltdに売却された。そして名称を、蒸留所から南の地平線に見える丘にちなんでBen Morven蒸留所とした。
その後の数年間の歴史ははっきりしない。ただ一つ、はっきりしていることは新しい会社は1900年に清算された。そして蒸留所は閉鎖された。 18人の全従業員の側にbowler hatを被った経営者と妻が整列した写真はエドワードの時代から存在する。地元紙の記事では蒸留所の閉鎖は1911年となっている。 また、Caithnessの産業史の中では最終的に第一次大戦が始まった時に閉鎖されたとなっている。
建物は段階的に取り壊された。高い煙突は1918年に倒された。蒸留棟はまだ建っていると言われている。そして蒸留所に水を供給していたCalder Burnの地下水路の水門は今もそこにある。
再度のGerston蒸留所の成功は、実現しなかった。
Glen Cawdor
地 域 | Northern Highland | 所 在 | Nairn |
開 業 | 1898年 | 閉 鎖 | 1927年 |
Glen Cawdor蒸留所は後期ヴィクトリア朝時代の好景気に建てられた16の蒸留所の一つ。その寿命はわずかに30年で、その頃はよい評判を得たらしいが記録にはあまり残っていない。
蒸留所はInverness-Elgin線がRiver Nairnを横切る鉄橋の近くに建てられた。その場所は多くのきれいな泉のくぼ地に接していて、蒸留所に適した土地だと思われる。
1896年、3人の起業家、InvernessのMessrs D. McAndie、NairnのJames Mill、CalcuttaのJames Mackillicanは6エーカーの土地を購入した。そしてGlencawdor Distillery Companyを設立した。
建物の建設は1896年7月、Charles C. Doigのデザインにより始まった。蒸留が始まったのは1897年10月だった。原材料の大麦は主に地元産のものを使い、ピートはNairnの南西にあるKildrummie Mossから得た。マッシングと冷却に使用する水は泉を使用した。ポットエールや使用済みのかすは貯蔵タンクに入れられた。使い残された廃水はNairnの下水処理場にパイプラインで送られた。
それは後期ヴィクトリア朝時代の標準的な蒸留所だった。また100フィートの煙突はすぐに目印となった。
Glen Cawdor蒸留所は19世紀末のウィスキーブームの絶頂期に開業した。そして20世紀初期の不景気に陥り、会社は1901年に解散した。そして蒸留所は1903年、John Haig & Coが買収した。
彼らは、1920年代後期の世界恐慌までの24年間操業したが、蒸留所は1927年に閉鎖された。そして1930年頃に取り壊された。建物の石材はBroadhillの公営住宅団地の建設に使用された。
蒸留所で今日残っている物は何もない。そして敷地は現在、運動場になっている。
Glenskiach
地 域 | Northern Highland | 所 在 | Evanton |
開 業 | 1896年 | 閉 鎖 | 1926年 |
古くからEaster Ross地方はウィスキー造りが盛んだった。現在も4つの蒸留所が操業している。Glenskiach蒸留所はその当時、非常に発展した。しかし1926年5月のGeneral Strikeの時、謎に包まれて、自主的な清算に入った。
蒸留所は1896年9月に資本金18,000ポンドで設立された。主導者はその会社の総責任者になった、EvantonのJohn Rossだった。彼はロンドンのワイン商といくらかの地元の名士たちの後援を受けた。蒸留所はEvantonの南でCromarty Firthに注ぐRiver Skiachの上に造られた。正確には、いつ蒸留が開始されたかは記録されていない。
蒸留所は非常によい位置にあった。川は優秀な水源で、鉄道は近くにあった。そして小さい貨物用のボートで大麦、石炭、ピートをすぐ近くの浮き桟橋へ持ってくることが出来た。John Rossは優秀なウィスキー造りの家系だった。彼の父、AndrewはBalblair蒸留所のオーナー。そして彼の叔父、James MunroはDelnyにあるPollo蒸留所の責任者だった。John RossはGlenskiach蒸留所が操業している間は所長であった。
Glenskiach蒸留所は1908〜10年の第一次大戦の困難な時代を通り抜けた。多分InvergordonとScapaの海軍基地に近かったのがよかったのだろう。そしてその後も順調に操業し、1920年には4720ポンドの利益の記録を作った。しかし続く数年の間に徐々に落ち込んでいき、1925年には1852ポンドとなった。
そして重役たちは1926年、会社を解散させることを投票で決定した。
蒸留所の建物は1929年、火事によってダメージを負った。そして1933年に取り壊された。その高い煙突が倒されるときは群衆が集まったという。建物の石材はStruie RoadのRiver Averonを横切る新しい橋の建設に使われた。いくつかの蒸留所の住居やコテージは売却された。 コテージの居住者は、1970年ぐらいまでキッチンから強いウィスキーのにおいがしたという。 今でも住居と工場の積載場の残骸が残っているらしい。
General StrikeにやられたGlenskiach蒸留所。一説によるとTeaninichやDalmoreよりもはるかに素晴らしい蒸留所だったようだ。なぜ解散したのかは謎のままだ。
Pollo
地 域 | Northern Highland | 所 在 | Delny |
開 業 | 1817年 | 閉 鎖 | 1903年 |
Pollo蒸留所についての情報は非常に少ない。
この蒸留所は農場から発展した蒸留所で非常に小さい。近くのBalblair蒸留所と強いつながりを持つRoss一族と関係があった。
最初は1817年、Mr W.B. Roseという名の蒸留業者によって開業されたが1821年に閉鎖された。1825年にBalblair蒸留所からJohn RossがPollo蒸留所を復活させようとやってきた。しかしその試みは1年しか続かなかった。
その後70年間、蒸留所は休止状態だった。多分、農場内の工場として使用されるために改造されたようだ。それから1896年にBalblair蒸留所のAndrew RossはPolloを蒸留所として再度、復活させた。彼はBalblair蒸留所に残り、彼の義理の兄弟のJames MunroをPollo蒸留所の責任者にした。その頃、Andrewの息子であるJohn Rossは数マイル南に新しく建設されたGlenskiach蒸留所のマネージャーになった。
Ross一族はその地域に影響力をもつ蒸留業者になった。しかし、Pollo蒸留所は決して大きな成功には恵まれなかった。そして1903年に再び閉鎖された。
その後、蒸留所として使われていない。その農場は現在も存在し、おそらく蒸留所の建物のいくつかは残っていると思われる。