Islay
Ardenistiel
地 域 | Islay | 所 在 | Port Ellen |
開 業 | 1836年 | 閉 鎖 | 1866年 |
別 名 | Ardenistle, Islay, Kildalton |
1816年のLaphroaig蒸留所の成功した設立の後、隣接した農場の牧草地は1935年、Walter Frederick Campbellによって、Ardenistiel蒸留所のための投資家であるJames & Andrew Gairdinerにリースされた。彼らはそれからそれをClackmannanの蒸留技術者の一族といわれているJames & Andrew Steinの兄弟に委ねた。
彼らはそれを1846年まで操業した。1846年にAndrew Steinが死亡し、JamesはPort Ellen蒸留所に所長として移った。
Ardenistiel蒸留所は1849年頃から1826〜1833年にPort Ellen蒸留所で所長を務めたが成功しなかったJohn Morrisonが操業を開始した。蒸留所名をKildaltonに変更したと思われる。しかし彼はまた失敗し、1852年に差し押さえられた時はほとんど操業していなかった。
その後、John Casselsの手に渡ったが、1953年にWilliam Hunterが買収し、操業を続けた。この頃はIslay蒸留所と改名されていたらしい。しかし1866年に彼は破産した。蒸留所はそのまま放置された。最終的にLaphroaig蒸留所の敷地となった。現在はウェアハウスとオフィスの建物が建っている。
現在のArdenistielの跡地と思われる場所。
Ardmore
地 域 | Islay | 所 在 | Port Ellen |
開 業 | 1817年 | 閉 鎖 | 1836年 |
別 名 | Lagavulin2 |
Lagavulin蒸留所と隣接したArdmore蒸留所についてはほとんど知られていない。現在のLagavulin蒸留所がJohn Johnstonによって1816年に建てられた後、1817年にArchibald Campbellによって建てられた。
創業当時は92gallonの超小型のポットスティル1基だったというから密造者と生産規模は変わらないと思われる。1年後までには30gallonのスピリットスティルを導入し、2回蒸留で操業を始めた。
1822年には創業者のArchibald Campbellが撤退し、1825年頃からJohn Johnstonによって操業が続けられた。この頃からLagavulinの第2蒸留所と呼ばれるようになったと思われる。
1833年にJohn Morrisonが蒸留所を買収したという記録もあるがはっきりしない。そして1836年にJohn Johnstonが死去し、同じ年の12月にGlasgowでウィスキー商を営むAlexander Grahamによって買収されて、現在のLagavulin蒸留所になった。
Lagavulin蒸留所。右側にArdmoreがあったと思われる。
Daill
地 域 | Islay | 所 在 | Bridgend |
開 業 | 1814年 | 閉 鎖 | 1834年 |
Daill蒸留所はおそらく密造者を何とか合法的な蒸留業者にするために小型のスティルの使用禁止を盛り込んだ1814年の酒税法の改正の後に開業した蒸留所だと思われる。その時代の多くの小型蒸留所に見られる農場発展型の蒸留所として創設された。
蒸留所の操業はMcEachern一族によって行われた。Neil McEachern(1814〜25)、Malcom McEachern(1825〜26)、Donald McEachern(1826〜34)によってライセンスの申請が行われている。1827年頃の生産量は年間6,043gallonだった。
他の小規模なIslayの蒸留所と同じようにウィスキーの英本土への輸送手段の確保の困難さが閉鎖の主な理由だった。
Daill Farmは今もMcEachern一族が蒸留所を操業していた場所に存在する。そして蒸留所に使用されたかどうかは不明だが古い建物は今でも建っているという。
Lochindaal
地 域 | Islay | 所 在 | Port Charlotte |
開 業 | 1829年 | 閉 鎖 | 1929年 |
別 名 | Port Charlotte, Rhinns |
ほとんどのIslayの蒸留所は島の東側に位置する。Lochindaal蒸留所はBruichladdichの西側、Port Charlotteにあった。
Port Charlotte distillery は1829年から1955年にかけて、7回もオーナーが替わっていた。
1855年、当時のオーナーのWilliam GuildとJohn B.Sheriffとのパートナーシップが解消し、John B.Sheriffは一人で経営を続けた。
1895年、CampbeltownのLochhead蒸留所やジャマイカのラム蒸留所と共に彼自身の名をつけた有限会社に組み入れられた。
そして1920年まで続けられた。
その年、John B.Sheriffの会社はBenmore Distilleries Ltdに売却。1929年に今度はDCLに吸収され、速やかに閉鎖、解体された。 その後、ウェアハウスはMacleay Duff Distillers Ltdにレンタル、モルトバーンはIslay Creamery(乳業)に使用された。
けれどもLochindaalが蒸留所として復活することにかすかな望みを抱いて数年間休止状態だったのかもしれない。 1948年10月2日付の新聞記事では、Islayの蒸留所の課税額が掲載され、Lochindaal蒸留所はその中で最低額の435ポンドとなっていたという。 いくらか建て替えられたが、多くの建物は今でも残っており、熱心な訪問者はLochindaal蒸留所の名残を見つけられるだろう。 また、ウェアハウスはCaol Ila蒸留所の予備の保管庫として使われていた。
Lochindaal蒸留所は近くの2つの丘の湖、GarrochとOctomoreを水の供給源としていた。ピートはIslayの苔が多く含まれていた。 1880年頃のLochindaal蒸留所は古さと新しさがミックスされていると記述されている。 しかし年間128,000 gallonと、かなりの生産量で、10,000gallonの8個のウォッシュバックと3基のポットスティルがあった。 4つのウェアハウスは合計およそ5000樽の貯蔵量があった。全てのウィスキーの輸送は海路によって行われていた。 いくらかはBruichladdichの桟橋から輸送されたという。
Lochindaalのウェアハウスウスは現在、Bruichladdich蒸留所が使用している。近い将来、Loch IndaalとOctmoreの名がついたモルトウィスキーが発売されるだろう。
Lossit
地 域 | Islay | 所 在 | Ballygrant |
開 業 | 1826年 | 閉 鎖 | 1862年 |
Lossit蒸留所はPort Askaigから7km程の位置にあるBallygrantの集落近くのLoch Ballygrantの隣にあった。
中規模の農場発展型の蒸留所で1826〜27年は12,200gallonのウィスキーを生産した。
創業者のMalcolm McNeillによって1826〜34年まで操業され、続いてGeorge Stewartが買収し、1852年まで操業された。最後はJohn Stuartによって1860年代まで操業された。
その後、Bulloch, Lade & Coが買収したが操業はされなかったらしい。その当時、同社が所有していたCaol Ilaのウィスキーの熟成のためにウェアハウスを1867年まで使用した可能性がある。
Lossit蒸留所はIslayの19世紀の農場発展型の蒸留所で最も長く生き残ったうちの一つだ。
Malt Mill
地 域 | Islay | 所 在 | Port Ellen |
開 業 | 1908年 | 閉 鎖 | 1962年 |
Sir Peter Mackieが1907年にLaphroaigの販売権を失った時に伝統的なIslayタイプのモルトを造るために建てられた蒸留所で、マッシュタンはLagavulinと共用だったが小型のモルトキルンと2基のウォッシュバックを持っていた。
Laphroaigと同じタイプのウィスキーを造るためにLaphroaigから職人を引き抜き、材料と手法を全く同じにして同じウィスキーを造ろうとした。しかしそれは成功しなかった。おそらく仕込み水をLagavulinと同じにしたためといわれている。
生産量はLagavulinの約1/5の小規模蒸留所だったが1960年まで操業していた。1962年のLagavulin蒸留所の改装工事の際に設備は移動された。このときのポットスティルが現在のLagavulin蒸留所の洋梨型スティルの原型になったようだ。石炭焚きのそのポットスティルはその後7年程使用されたらしい。
現在、建物の一部はReception CentreとShopとして利用されている。
Lagavulin蒸留所。一番左側がMalt Millのものといわれている、Reception Centreのある建物。
Mulindry
地 域 | Islay | 所 在 | Bowmore |
開 業 | 1826年 | 閉 鎖 | 1831年 |
Mulindry蒸留所はおそらくIslayで最も短命で成功しそうもない蒸留所の一つだ。
1827年にJohn SinclairによってNeriby BurnとRiver Lagganの合流点の側、McNeill Weir (Bowmore蒸留所が造った)の隣にに建てられた。
設備は隣の川からの水力で動いていた。1826〜27年の生産量は4,332gallonだった。
しかし1931年にJohn Sinclairは破産し、その後アメリカへ移住した。地元の保税官によると、彼自身の生産品、すなわちウィスキーが好きだった。それが彼の破産の原因だったといわれている。
その後、蒸留所は再開することもなく、そのまま忘れ去られた。現在、敷地には残骸の石があるという。
Newton
地 域 | Islay | 所 在 | Bridgend |
開 業 | 1819年 | 閉 鎖 | 1837年 |
1819年にThomas PattisonはBridgendの東のNewtonのBridgendからBallygrantへ向かう道路の側にNewton蒸留所を開設した。
Newton蒸留所は小規模な蒸留所で1826〜27年に6,122gallonのウィスキーを生産した。1837年まで操業されたがその時にはIslayで同規模の蒸留所はほとんど閉鎖された。
Newton蒸留所の操業についてほとんどわからない。Newton Houseに蒸留所の一部と思われる建物が残っている。窓に金属製の格子があるのでウェアハウスだったようだ。
Octmore
地 域 | Islay | 所 在 | Port Charlotte |
開 業 | 1816年 | 閉 鎖 | 1854年 |
Port Charlotteの背後の丘に古くからあったOctmore Farmに1816年に蒸留所が造られた。操業はライセンスを発行されたGeorge Montgomeryとその一族によって行われた。
60gallonのポットスティル1基の小規模な蒸留所の生産量は初期の1817〜18年に998gallon(4,530litres)で、最盛期と思われる1826〜27年に3,551gallonまで伸びた。
1840年頃、Georgeと彼の兄弟が死去するまで操業は続けられたようだが詳細についてはわかっていない。1852年にThomas Pattisonが所有していたようだが、最終的には領主であるJames Morrisonに返された。
農場の中の建物は現在残っているようだがどのような構造であったかは明らかになっていない。
Octmore Farmにある古い建物。
Scarabus
地 域 | Islay | 所 在 | Ballygrant |
開 業 | 1817年 | 閉 鎖 | 1818年 |
Islayで最もはっきりしない、そして短命の農場発展型の蒸留所のひとつだ。
ライセンスはJohn Darrach & Coの名で1817〜1818年に取得された。しかし本当に蒸留所をやる気があったのか疑いたくなるような実情で、1816年の酒税法改正の後にもかかわらず、76gallonのポットスティル1基の操業だった。
Scarabus Farmは現在もBridgendからBallygrantへの道路から少し入った所に存在する。おそらくここに蒸留所があったと思われる。Scarabus蒸留所の謎の2年間は今もわからない。
Tallant
地 域 | Islay | 所 在 | Bowmore |
開 業 | 1821年 | 閉 鎖 | 1852年 |
Tallant蒸留所は1821年に、Bowmoreの町の近くのLoch Tallantの側のTallant FarmのDonaldとJohnのJohnston兄弟によって創設された。1827年までの税金の記録に2つの"Bowmore"の蒸留所の一つとしてこの蒸留所が記録されている。
ある時点でAngus Johnston(おそらく、オーナーの身内)を所長として農場発展型規模の蒸留所を操業したというのが正確なようだ。おそらくJohn Johnstonがこの蒸留所でウィスキービジネスを発展させようとする気があったのかは疑問だ。
生産能力は週220gallonで、1826〜27年は年間2,101gallonの生産量に達した。
当然ながら蒸留所は1852年に破産した。その後Donald JohnstonとJohnの息子、Alexander JohnstonはLaphroaig蒸留所の発展において功績を上げ、成功した蒸留所技術者になった。
Tallant Farmは現在も存在する。そしていくつかは倒壊しているが蒸留所の建物と思われるものも残っている。