Lowland

Adelphi

地 域 Lowland 所 在 Inverkip Street
Gorbals Glasgow
開 業 1825年 閉 鎖 1907年

Adelphi蒸留所は1825年にGray兄弟、CharlesとDavidによって2エーカーの果樹園だったところで開業された。 ちょうどGorbalsの北の端、Clyde川のVictoria Bridgeの南側に位置する。その名前は施設の北側にあった長い川岸の通りから取られている。 Adelphi蒸留所はGlasgowで最も成功した蒸留所のひとつで、Inverkip Streetの一つの側を完全に占めるまで徐々に拡張されていった。 後に、1852年頃から建設され始めた広大なウェアハウスがもう一方の側を占めた。

最初はすべてのモルティングを自社で行っていたが、その後、おそらくDundashill蒸留所と契約の元に、Port Dundasに移された。 そしてモルトはGorbalsへ荷馬車で持って行った。
Adelphi蒸留所は最初、どこを水源としていたかは知られていない。しかし1859年、Glasgow市はLoch Katrineから市までの広大な水道計画を開始した。 蒸留所は1860年代に水源を変更した、そして1870年に名称をLoch Katrine蒸留所と変更した。

Glay一族は蒸留所がある間、ずっと操業してきた。しかし1880年ぐらいにその所有権を、すでに2つの大きな蒸留所を所有する、Messrs A.Walker & Coによって買収された。 Walker社は資本を注入し、大きなコフィースティルを導入して事業を拡大した。1886年にコフィースティルと4つのポットスティルはすべてフル稼働し、年間の生産量は516,000gallonとなった。 10個の16,000gallonのウォッシュバックを持ち、さらに2つは建設中だった。3基のウォッシュチャージャーは全部で45,000gallonの容量があった。 ウォッシュスティルはそれぞれ6,000gallon、そしてスピリットスティルはそれぞれ4,500gallon。6基の大きくて重い80馬力の蒸気エンジンがあった。 そして6基の大型ボイラー。すべては先が広がっている巨大な丸い煙突から見下ろせた。

Loch Katrine Adelphi蒸留所は後期ヴィクトリア時代の好景気の後のエドワード時代の不景気の最初の犠牲の一つと思われる。1902年にDCLによって買収され、それから1907年の間、蒸留は行っていなかった。 それ以降の歴史ははっきりしない。しかし蒸留所の建物は、1971年に倒された煙突と共に、1968〜70年まで取り壊された事実はなかった。ウェアハウスは長年使われていたがそれらも現在はなくなった。 そして現在はInverkip Steetも存在しない。

Clydesdale

地 域 Lowland 所 在 Wishaw
開 業 1825年 閉 鎖 1919年

Clydesdale蒸留所は1825年、Belhaven of Wishaw Houseの8代当主、Robert Montgomeryによって設立された。 60,000〜90,000ポンドの建設費用と多くの日数を費やしてできた、非常によい造りの蒸留所だったといわれている。

Belhaven当主はWishawで、蒸留所に近いタイル工場や2つの炭坑、Quarry炭坑とDistillery炭坑を含む多くの事業を行っていた。 残念ながら、ビジネスマンというよりも偉大なる空想家だったようで、彼の事業で成功したのは少数だった。

Clydesdale蒸留所は開業時からいろいろな蒸留業者に貸し出された。数年にわたって、ライセンスはPatrick Chalmers, Todd & PatersonとAlexander Jack & Robert Strachanによって保有されていた。 しかしだれもが現実にClydesdale蒸留所を成功させたと言うことができない。1848年、Patrick ChalmersのWishaw Distillery Co は蒸留所を買収した。 そしてBelhaven当主は手を引いた。その会社は1855年、Patrick Chalmersの死後、商取引をやめた。蒸留所はChalmersの娘婿でClydesdale蒸留所の最初の出資者だったJ.Munro Mackenzieによって引き継がれた。 彼は1876年に新しい水源(52,000gallon/週)を獲得した。そして1891〜92年に新しいウェアハウスを建設した。Clydesdale蒸留所のローランドモルトは彼の管理の元、さらに高い名声を築き上げた。

彼はChalmerの名によって1870年まで操業した。それから彼自身の名で1894年まで操業し、その後Clydesdale Distillery Co Ltdの法人組織となった。 1914年の暗黒の時代、他の4つの蒸留所とScottish Malt Distillers Ltd を創設した。 しかし1919年頃に閉鎖された。

Alfred Barnardは蒸留所を訪れて、4棟の穀物倉庫、8つのモルティングフロア、Greenhead Moss近くからのピートが焚かれる2つのキルンを持った大きく、 活気のある蒸留所だったと記述している。 15,000gallonのマッシュタン、4基の18,000gallonのウォッシュバック、同容量のウォッシュチャージャー、1,000〜5,000gallonの4つのポットスティルがあった。 ほとんどのローランドの蒸留所と同じように3回蒸留を行っていた。

また、Alfred Barnardは3,500樽収納出来る10棟ものウェアハウスがあったと記述している。しかもこれは1891年の拡張前のことだった。 蒸留所は自前のクーパリッジを持っていた。そして再生して使用するためのたくさんの空のシェリー樽を購入していた。 また、Caledonian Railwayからの支線を持っていた。従業員は5人の保税官を含む40人がいた。年間生産量は170,000gallonだった。

蒸留所の閉鎖後、保税倉庫は長年に渡り使用された。第二次大戦の間、軍隊がそこに駐屯した。そして再び、1980年代中期まで保税倉庫として使用された。 DCLがGuinness社によって買収された後、建物は不要になり、1988年に取り壊された。

Dundashill

地 域 Lowland 所 在 2 Graighall Road
Port Dundas Glasgow
開 業 1770年 閉 鎖 1903年

Dundashill蒸留所とそれに直接隣接するPort Dundas蒸留所は、17世紀からその他すべての蒸留所の成長を妨げたウィスキー業界の2つの巨星だった。 今日、Port Dundas蒸留所は生き残り、UDの大きなグレーン蒸留所の一つとなった。 Dundashill蒸留所は注意深い訪問者ならば失われた蒸留所の何らかの痕跡を見つけるだろうが、敷地に新しい建物ができてから長い時間が経っている。

Dundashill蒸留所は、John Haigが蒸留所の場所を探していた、1812年頃開業された。続く35年の間、多くの所有者の交代があった。 Thomas Harvie, Glasgow Distillery Co, R.Harveyそして最終的には1841〜46年までHarveys,McFarlane & Co。その年に会社は解散した。 そして新しい会社、John & Robert Harvey & Coが買収した。そして20世紀まで操業を続けた。

Dundashill蒸留所は、MonklandsとForth&Clyde運河から運ばれてくる、Port Dundasの運河の波止場の側に位置していた。 荷船は大麦や石炭を運び込み、スピリッツの樽を運び出した。Caledonian Railwayからの支線は遅れて蒸留所に敷設された。 そして土地は数年にかけて、莫大な大きさになった。Alfred Barnardの記録では、5,000tの大麦を持ち、常に1,000tのピートが貯蔵されている。 そして穀物庫、大麦浸漬槽、モルティングフロアは全て同じ大きさだった。2基のマッシュタンは合計30,000gallonの容量で、 9基のウォッシュバックはそれぞれ16,000〜24,000gallonの容量だった。

すべてのスティルは石炭燃焼で、それぞれの容量が6,500gallonの2基のウォッシュスティルとそれぞれの容量が600から1,200gallonの10基ほどのスピリットスティルがあった。 年間の生産量は平均して350,000gallonだった。ウェアハウスは8,000樽、保有量は約75万gallonだった。Dundashill蒸留所はさらに1860年代から水源をLoch Katrineに変えた。 しかし後日、水の供給源を隣接する運河からに変更された。それを保存するために巨大な90ヤード×20ヤードの、いっぱいになったときに15フィートの深さで大きなポンプで常に満たされている貯水池が蒸留所の周辺に作られた。

Dundashill蒸留所では2種類のモルトウィスキー、Highland Malt(麦芽がピートによって乾燥されたもの)とOld Still Malt(乾燥にピートが使われていない)が生産されていた。 両方ともシングルモルトやブレンド用として販売されていた。

莫大な量のドラフを消費するために、Yoker蒸留所を操業しているHarvey一族はいくつかの酪農用の農場を購入した。 そして彼らの本によると一時期は千頭の乳牛を飼っていた。けれどもその合計は後に400頭に調整された。

何十年も、Harvey一族はDundashill蒸留所にコフィースティルを導入する考えに抵抗した。けれども最終的に1899年に導入された。蒸留所が時代に遅れてひどく落ち込んだ、 そしてHarvey一族はコフィースティルが彼らの運気を上昇させてくれるだろうことを望んだが、失敗した。Dundashill蒸留所は1902年に閉鎖された。翌年、DCLが買収し、すべての設備を分解してPort Dundas蒸留所で使用できるものは再生された。Dundashill蒸留所の一部は倉庫とクーパレッジとして長い間使用されたが今日、敷地には新しい建物が建っている。

Glenmavis

地 域 Lowland 所 在 West Lothian
開 業 1795年 閉 鎖 1910年

Glenmavis蒸留所はいくつかの特徴を持った蒸留所だった。典型的な農場発展型のモルト蒸留所だが、どちらかといえば工業地帯に近いところに位置していた。 1800年代初期にいくらかのオーナーが事業に失敗した後、1831年、John MacNabによって買収された。彼はそれから1910年頃に閉鎖されるまで操業することになる。 そしてモルト蒸留所では唯一、1855年導入したコフィースティルを使用していた。 1880年代中期の一日あたりの生産量2,000gallonの時代にGlenmavis蒸留所の生産量は唯一80,000gallonだった。

なぜ、Glenmavis蒸留所がコフィースティルを持っていたかはわからない。しかしJohn MacNabはコフィースティルをHaig社やStein社のような大手蒸留業者の1つから最低価格で勧められたのではないかと推測される。 1840年代、いくつかの大手蒸留業者はすべてが成功したわけではないが、コフィースティルを導入した。その結果、生産過多になって一時休止や閉鎖を引き起こした。 MacNabは、2基の新しいポットスティルの費用よりも安い中古のスティルと付属設備を勧められたのかもしれない。

蒸留所はBathgateの北の小川の側の急勾配な敷地に建設された。モルティング施設が蒸留所とBathgateの町にあった。その上、合計で2,000樽収納可能なウェアハウスも両方にあった。

Alfred Barnardが蒸留所を訪れたとき、コフィースティルは別として、素朴で時代遅れな蒸留所だったと記述している。 他の多くの蒸留所がMorton社の冷蔵庫を持っていたこの時代にワートはファン冷却だった。 けれども、John MacNabはなかなかの人物だったと思われる。国内外に売る彼のウィスキーの多くは彼自身のラベル "MacNab's Celebrated Glenmavis Dew"として瓶詰めされた。 彼はドラフを与えていた70頭ほどの牛を飼っていた。蒸留所は16人のスタッフと3人の保税官によって操業されていた。そして毎日、原料や樽を、Bathgate駅と蒸留所の間を運んだ7頭の馬と荷馬車があった。

閉鎖したのは第一次世界大戦直前だった。しかし"MacNab"の名は完全には、なくならなかった。事業家のJoseph Hobbsは"MacNab"のブランドを買った。 1957年、MontroseにMacNab Distilleries Ltdの名の元で、Lochside蒸留所がオープンした。そして"Sandy MacNab"というブレンデッドウィスキーを市場に出した。

Glenmavis蒸留所の建物は数年前に取り壊された。長く蒸留所と関係のあったOld Glenmavis Houseは、現在もまだ建っている。 そして最も近いパブにはMacNabのウィスキーの名が入ったパブミラーがあるという。

Yoker

地 域 Lowland 所 在 Glasgow
開 業 1770年 閉 鎖 1928年

Yoker蒸留所はGlasgowからClyde川を下った、北側の堤防の村に位置していたのでその名がつけられた。1770年にJohn Harveyによって設立された。 彼はYoker蒸留所、Dundashill蒸留所、そしてIslayのBruichladdich蒸留所で蒸留所グループを形成した。そしてほぼ2世紀後にそのグループを譲渡した。

Yoker蒸留所は高いスループットの絶頂期、蒸留業者がスティルの容量での法外な徴税から最大限の利益を得るために1時間当たり4〜5回の蒸留作業を行っていた、 浅いスティルの時代に操業を開始した。

19世紀初期の多くの蒸留所と違い、Yoker蒸留所は、代々受け継がれるライセンス上の名前は変えたが頑固として一つの所有者、Harvey一族をおいた。 Harvey一族とYoker蒸留所は20世紀まで何事もなく操業した。しかし1897〜98年にトラブルがあり、最終的に失敗してウェールズの蒸留業者、Alexander Dempsterに買収された。 新しい社名、Harvey's Yoker Distillery Ltdを掲げたがHarvey一族はトラブルに見舞われていた。彼らはDundashill蒸留所を1902年にDCLに売却し、Yoker蒸留所は1906年に清算に入った。

蒸留所は、代表者がAlexander EdwardのEdinburghの蒸留業者、ブレンダーのビジネスグループに買われた。それから彼らは1918年、John Dewar、James Buchanan、DCLのグループによって買い取られた。 そしてYoker蒸留所は1927年に閉鎖された。1930年代に復活し、再開する望みがあったけれども実現しなかった。DCLはウェアハウスと倉庫を長年使い続けた。 蒸留所は1941年のドイツ軍のClyde爆撃によってひどいダメージを受けた。そして現在実際に残っているものはない。

Alfred Barnardはそれを古いのと新しいのがミックスされたものだと述べた。低い天井と古風で趣のある暖炉の部屋と対照的な、 容量が25,000gallonを越える16基の広大なウォッシュバック、 2基の巨大なコフィースティルと1880年代に機能していたスティルの1つのStein方式の連続式蒸留器。さらに4基の広大なボイラーとすべてが一体化した蒸気エンジンとポンプ。 生産量は主にグレーンウィスキーといくらかのモルトウィスキーで年間600,000gallon。水源は敷地内の井戸、Loch Katrineの水道。Yoker Burnからも供給していたかもしれない。

8棟のウェアハウスがあり、加えて大きなドラフ貯蔵庫と沈殿池があった。それぞれ100頭の牛は、最新式の牛乳製造ラインと搾乳場を備えたMr Barnett Harveyの隣接した農場でドラフで育てられた。 バターは蒸気の力で動かされる撹拌機で撹拌され、毎日Glasgowまで急送された。

Alfred Barnardが見つけたYoker蒸留所の特徴のひとつは、特許をとったの熟成用装置で熱を使ったいくつかのやり方でウィスキーの熟成の速度をはやめることができたらしい。 しかしそれは成功しなかったようで決して広まることはなかった。