Speyside

Parkmore

地 域 Speyside 所 在 Dufftown
開 業 1894年 閉 鎖 1931年

Parkmore蒸留所ができたのは1890年頃のウィスキーブームの中でParkmore Distillery Company LtdによってDufftownに建設された。

伝統的なパコダ屋根と広い貯蔵庫を持つ蒸留所だったが好調な時期の終わりはあまりにも早く、Dundeeに本拠地を置くJames Watson and Co に吸収、 次に1923年にJohn Dewar and Sons Ltdに買収され、蒸留所は1925年にDCL所有となった。 蒸留所は1931年に休止。けれども蒸留ライセンスはDaniel Crawford and Son Ltd が1940年頃まで持っていた。

Dufftownという場所と大規模な貯蔵容量により、近年まで貯蔵庫や保税倉庫として使われていた。 ほかの場所や乏しい貯蔵量では何年も前に一掃されていただろう。

Parkmore蒸留所 そして「1890年代のウィスキーブームの中で、外見的には最も完全に生き残った蒸留所」と評されている。もちろん、そのウィスキーを見つけることはできない。

Speyside

地 域 Speyside 所 在 Kingussie
開 業 1895年 閉 鎖 1911年

Speyside蒸留所はよい財政的な支援とその時代の最高のマネージャの一人を持つ、その地域では立派な蒸留所だった。 水源は優れていると評判で、蒸留所の機械、設備、樽そして原料も同じように他のSpeysideの蒸留所よりも優れていた。 しかし何らかの理由で、Speysideの最も南寄りの蒸留所はうまくいかなかった。

蒸留所の開業には2人の George Grant が関係していた。1人は1875年に24歳で GlenGrant蒸留所の所長になった George Grant。 彼のビジョンと技術はGlenGrant蒸留所をビックネームの一つにすると信じられた。けれども彼は病気のために引退する必要があった。 ちょうどもう1人の、Ballindallochの大地主、Sir George MacPherson Grant がウイスキーブームに乗ろうとKingussieに蒸留所の計画を考えていた時だった。 Sir George MacPherson Grant は彼を説得した。

Speyside Distillery Co. Ltd は創業された。地元の建築家によって設計された計画はまもなく始まった。 そして20,000ポンドかかったと言われる蒸留所は1895年に操業し始めた。町の西側で地元産の石で三方を囲まれた見事な複合的な建物で、Ruthven Barracksを見下ろす位置にあった。 後ろにGordon Arms Hotel、そして水力と仕込み水を供給する Gynack(Guynach) Burnの側の10エーカーの敷地に建ち、アクセスに便利な道路、 そしてPerth-Inverness線からの専用の支線があった。 貨車は大麦の袋を広大なロフトに持ち上げる昇降機の下に直接移動した。そしてドラフは運搬車へ直接積まれた。

2つの浸透漕と2つの大きなモルティングフロアがあった。キルンは穴の空いた鉄の床板と少し変わった回転するカバーを持っていた。 モルトミルは16馬力の蒸気エンジンまたはGynack Burnによって回される18フィート6インチの水車によって動かされた。 マッシュタンからのワートはMorton製の縦型冷蔵庫によって冷却された。そして6基の9,000gallonのウォッシュバックの一つで発酵された。 7,200gallonのウォッシュチャージャーで3,500gallonのウォッシュスティルが満たされ、次に2,700gallonのスピリットスティルに供給される。 両方ともネックの部分にバルジがある。 樽は木製の3,700gallonのスピリットバットから満たされ、3棟の大きなウェアハウスに格納された。

Speyside蒸留所はまた、電気設備と鉄道の駅やOld Miltonを結ぶ電話や地主の息子で専務取締役であるJohn MacPherson Grantの邸宅を持っていた。 蒸留所が開業してすぐにGeorge Grantは引退した。そして1987年末にLossiemouthの食料雑貨店を購入した。彼は1898年7月に47歳で死ぬ時まで8ヶ月間そこにいた。 蒸留所の彼の後継者はRothesから来たJames Cummingだった。

Speyside蒸留所が事実上機能しなかったのは何であるかは記録されていない。しかし開業時からいろいろな問題があった。 建築家Charles C. Doigは問題を指摘するために助言を求められた。 しかし彼が調査をしたという記録はない。改築のための作業に着手したかどうかも不明だ。 蒸留所は20世紀に入り、なんとか操業していたが蒸留は1905〜10年の間に停止したと思われる。 建物は約750ポンドで売却された。そしてそれから数個の建物を除いてほとんど取り壊された。 会社は1911年に解散した。

いくつかの装置、設備は他の蒸留所へ売却され、導入されたと思われる。Speyside蒸留所のウォームタブはDalwhinnie蒸留所に導入され、1934年の蒸留所の破滅的な火事を切り抜けた。 そして最終的に1986年にコンデンサに変えられた。Dalwhinnie蒸留所は1934年の火事の後、いくつかの他の蒸留所、多くはもう一つの不運な蒸留所、Towiemore蒸留所から中古の装置を手に入れた。

Speyside Distillery 現在はKingussieの中心部に一部の建物が残り、"Old Distillery Road"という通りの名前がそこに蒸留所があったことを気付かせてくれる。

閉鎖された約80年後の1990年にTromie川の側に建設された新しいSpeyside蒸留所がオープンした。既にシングルモルトのオフィシャルボトルが発売されている。

Towiemore

地 域 Speyside 所 在 Towiemore
開 業 1896年 閉 鎖 1930年

Towiemore蒸留所は1897年7月にPeter Dawsonによって起業された。そして11月にKeith-Dufftown Railwayの側の大きな敷地に建設が始まった。
1898年、完成した蒸留所はTowiemore-Glenlivet Distillery Co Ltd. が運営を行った。
1902年初期に株に関する争いがあり、1904年には火事もあったが、その後も順調に発展していた。 第一次大戦の間、1917年7月に閉鎖されたが戦後すぐに再開した。

Towiemore蒸留所は素晴らしいウィスキーを造っていた。しかし、水を加えたとき、ペルノーやウゾのように濁った。おそらくは水の石灰分が原因だったと思われる。
今でこそ、モルトファンは加水して少し濁ったぐらいは気にせず飲んでいるが、知らない人は当惑するだろう。

致命的だったのは1922年頃、その当時の主流であったブレンデッドウィスキーのブレンダーたちがブレンドのためにTowiemoreのウィスキーを使用しないと通告したことだった。 所員たちは濾過や他の水の処理を試した。しかし完全に成功したものはなかった。 当時の技術では味を変えずに濁りだけを取るのは至難の業だろう(今も難しいだろうが)。

蒸留所は1930年に清算に入った。SMDはそれから蒸留所を買収し、閉鎖した。しかしモルティング施設やウェアハウスは近年まで使用された。そしてモルティング施設の一部は1993年に農場施設の建物に改装された。

現在、モルトは世界中で飲まれ、加水して濁ることがあるということは知られている。特にあまりフィルタを通していないものはその傾向が強い。しかしその現象は敬遠されるどころか喜ばれることすらある。そういう意味ではTowiemoreのウィスキーは出現するのが早すぎたのかも知れない。