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町の北側、Glenfiddich蒸留所の向かい側の小高い丘にあるBalvenie Castle。
13世紀に建てられたその時代の特徴であるカーテンウォールを持った城で、Alexander Comyn伯爵によって建てられた。重要な位置にあるこの城によって、Comyn一族はこの地域を支配した。

1304年にはEnglandの王、エドワード一世がこの城を訪れている。ということはComyn一族はEngland寄り?。
1308年、Comyn一族は、あのRobert the Bruceによって、滅ぼされた。これはEnglandへの反抗の前の国内統一行動の一つと思われる。
城はその後、15世紀初期まではどうなっていたかははっきりしない。建っていたことは確かだが・・・。

15世紀初期に城の所有者となったのはDouglase一族だった。彼らは要塞と共に生活の場としての改築を行い、キッチンやブリュワリーを追加したと思われる。しかしDouglase一族は広大な領地を所有し、王と並ぶ権力を持っていたので、ジェームス二世王との争いに巻き込まれ、1455年、全領地を没収、当主は国外追放という結果になる。 その後、城は王の身内が順番に所有した。

16世紀に入り、Stewart一族が所有していた城は、生活する場所としての改築が行なわれた。当時の流行であったルネサンスハウスの構造を取り入れ、古い部分と合体させた。 現在東側に残る円形の塔を含めた生活用の部屋がこの部分と思われる。
1562年9月にメアリー女王が訪れ、2泊したというのがこの城唯一の栄誉だが、女王側はStewart家を威圧するために立ち寄ったとの見方が有力だ。

18世紀に入り、時代と共に変化する生活様式がこの城を終わらせた。城を改造するよりもどこか別の場所へ邸宅を新築したほうが容易と判断し、1724年にこの城は見捨てられた。
Balvenie Castleは異なった時代と人々の要求に応えるべく、進化した貴重な建造物として、現在にその姿を残している。1929年より国の保護下に入っている。

Balvenie Castle右側の円形塔を含めた東側の部分(見えている部分)が16世紀に追加されたJohn Stewart邸宅。通称"The Atholl Lodging"。

Balvenie Castle塔の内部は3階構造で、1階は身内用、2階はJohn Stewart伯爵。そして3階は伯爵夫人が使用していたという。

Balvenie Castle中庭も15〜16世紀にかけて改築され、キッチンや部屋が追加された。現在は東側を除き、崩れ落ちている。

Balvenie Castle当時の姿を表す案内板。Scotlandは基本的に遺跡の保存や倒壊防止の工事は行うが復元はしないようだ。
それに対して日本は復元が好き。私の住んでいる奈良でも、ピッカピカの朱雀門があります。観光客もこんなん見にけーへんっちゅうねん。あぁ、税金の無駄使い。
それでもまだ、平城京本堂の復元をするらしい。