Campbeltown
Albyn
地 域 | Campbeltown | 所 在 | the Roading |
開 業 | 1830年 | 閉 鎖 | 1927年 |
Albyn蒸留所は1823年の税法改正後の場ウィスキーブームの後の1830年にWilliam McKersieによって町のガス会社の横に建設された。1837年に創設されたとの記録も存在する。蒸留所は創業以来、McKersie家によって運営された。そしてAlbyn蒸留所を成功させた後、1867年にLochruan蒸留所も買収した。
Albyn蒸留所は1.5acreの小さい敷地に2棟の穀物庫、4つのモルティングフロアにピートだけで乾燥させる2棟のキルン、6基の5000gallonのウォッシュバッグ、3基のポットスティル(おそらくウォッシュスティルの2500gallonと1650gallon、580gallonのスピリットスティル)、そして2000樽保管できる5棟のウェアハウスがあった。水源は町の南にあるCrosshill Lochを使用した。
Alfred Barnardは1885年、Albyn蒸留所を質素な時代遅れの場所と自書に記述した。ほとんどすべての作業が手作業によって行われ、年間生産量はおよそ85,000gallonだった。
ほとんどのCampbeltownの蒸留所のように、第一次世界大戦の間は閉鎖された。その後一時的に再開されたが1920年頃に蒸留は停止された。運営していた会社は1927年4月に清算に入った。蒸留所は1928年5月に売りに出された。そしてその年の暮れに売却された。現在、その敷地は住宅地となり、通りの名前に蒸留所名が残っている。
Ardlussa
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Glebe Street |
開 業 | 1879年 | 閉 鎖 | 1923年 |
Ardlussa蒸留所はCampbeltownで最後に建設された蒸留所でGlebe StreetのGlen Nevis蒸留所の隣にあった。蒸留所の運営会社であるArdlussa Distillery社はJames FergusonのGreenock社が所有していた。同社はJura島にCraighouse蒸留所(現在のJura蒸留所)も持っていた。当時としては機械化されたは近代的な蒸留所で6基の8,200gallonウォッシュバック、大きな8,000gallonのウォッシュスティル、3,560gallonのスピリットスティルがあった。2棟の広大なウェアハウスはAlfred Barnardによると、18,000樽の保有量があった。1885年の年間生産量は118,000gallonだった。
1919年、資金繰りに困ったFerguson家はArdlussa蒸留所をWest Highland Malt Distilleries社へ売却した。ウィスキーの製造は1924年に終了した。そして蒸留所はオークションで売却された。その後1936年に蒸留所の建物は新しい会社によって購入され、ウェアハウスだった建物にブレンドと瓶詰の工場が造られた。
現在、Ardlussa蒸留所の敷地は大手建設会社の作業場となっている。
Argyll
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Longrow |
開 業 | 1844年 | 閉 鎖 | 1923年 |
町で二代目となる、Argyll蒸留所はHazelburn蒸留所の南側に建設された。創業者はRobertとHughのColvill兄弟、Robert GreenleesでColvill Greenlees社を設立した。
小さな蒸留所だったけど、近代的な設備を持っていたと1885年に訪れたAlfred Barnardは著書に記述している。大麦貯蔵庫、キルン、モルティングフロア、マッシュタン、3900gallonの5基のウォッシュバッグ、1070gallonのウォッシュスティルと686gallonのスピリットスティル、600樽を保有できる5棟のウェアハウス。年間生産量は40,000gallon。水源は町の水道と、敷地内に予備として深い井戸を持っていた。
Colvill & Greenlees社は第一次世界大戦後の不景気の影響を受け、Argyll蒸留所をAinslie & Heilbron社に売却した。しかしその会社もDCLによって買収された。ウィスキー製造は1923年に停止された。そしてDCLは1929年8月にCraig Brothersに蒸留所を売却した。彼らはそれをガレージへと改造した。現在はガソリンスタンドとなっている。
Benmore
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Saddell Street |
開 業 | 1868年 | 閉 鎖 | 1927年 |
Campbeltown全盛期の後半に創業されたBenmore蒸留所は、GlasgowのCamlachie蒸留所、IslayのCaol Ila蒸留所を所有する、Bulloch Lade社によってSaddell SteetのKinloch Parkの北側に建設された。パゴダ屋根をモルトキルンの上に置いた、町で最初の蒸留所だった。初期の頃、強風で煙突が倒れるというアクシデントがあったがすぐに建て直された。
Benmore蒸留所は他のCampbeltownの蒸留所と比較すると、大規模で近代的な蒸留所だった。6基の5,400gallonのウォッシュバック、2,500gallonのウォッシュスティルと1,200gallonのスピリットスティル、4棟の近代的なウェアハウスは合計で3,000樽を保有することが出来た。さらに大きな樽製造所があった。水源は敷地内の井戸から取得していた。年間生産量は125,000gallonだった。
1920年、Benmore蒸留所は新しい会社、Benmore Distilleries社によって引き継がれた。同社はさらにCampbeltownのLochead蒸留所、IslayのLochindaal蒸留所、MorayのDallas Dhu蒸留所を買収したがBenmore蒸留所でのウィスキー製造は1927年に停止された。そして1929年、Benmore Distilleries社はDCLの一員となった。
蒸留所の敷地は1936年5月にCraig Brothersに売却された。現在は彼らが設立したWest Coast Moter Services社のバス車庫となり、モルトキルンは残っている。パゴダ屋根はないけれども。
Burnside
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Witchburn Road |
開 業 | 1825年 | 閉 鎖 | 1924年 |
Burnside蒸留所は1825年にWitchburn Roadから少し入った町の南端、Meadowburn蒸留所の南側に、McMurchy Ralston社によって創業された。その会社は1840年頃までにArgyll蒸留所を所有していたColvill & Greenlees社の傘下となった。
蒸留所は平均的なCampbeltownの蒸留所で2acreの土地に2棟の穀物貯蔵庫、6基の5,500gallonのウォッシュバッグ、4つのモルティングフロア、それぞれ3,000gallonと1,250gallonの2基のポットスティル、9棟のウェアハウスがあった。年間生産量は100,000gallonだった。モルティングフロアのある建物の一つがとても大きく、おしゃれな造りだったので、そこでDuke of Argyllの成人祝いのパーティーが行われたこともあった。
生産されたウィスキーは精麦時にピートを少ししか使用せず、コークスと無煙炭を混ぜて使用されたので他の蒸留所のウィスキーよりもマイルドだったという。
Burnside蒸留所は経営パートナーのJames Greenleesの死去の後、1888年頃から業績が悪化し、4,000ポンドで売却することを提案された。しかし、その時は売却せず、第一次世界大戦後まで残った。しかし戦争のための休止から再開しようとしたが実現せず、1919年9月に乳製品製造工場へ改造するプランが作られた。ウィスキーの製造は1924年頃まで行われたという。
現在はその計画通りにCampbeltown Creamery社の工場がある。Burnside蒸留所の建物はその工場内にいくつか残っている。
Campbeltown
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Longrow |
開 業 | 1817年 | 閉 鎖 | 1924年 |
Campbeltown蒸留所は、最初の合法的な蒸留所で、麦芽製造業のJohn MacTaggartと町のいくつかの蒸留所を支援していた銀行家John BeithによってUnion蒸留所の隣に建設された。1835年、Campbeltown蒸留所はUnion蒸留所と共にCharles Rowatt MacTaggartが所有者となったが、操業はHector Hendersonが借りて行っていた。彼は1837年に蒸留所を辞めた後、1846年にCaol Ila蒸留所を創設する。
その後、Campbeltown蒸留所はDuncan McMillanとCaptain George Melvilleによって創設された、Campbeltown Distillery社によって運営された。
1885年に蒸留所を訪れたAlfred Barnardは、最新設備が導入されているのに、古い蒸留所に見えると記述した。4000gallonのマッシュタン、3000gallonのウォッシュバック、2基の古いスティル(ウォッシュスティル1400gallon、スピリットスティル960gallon)、1300樽の保有量の4棟のウェアハウスがあった。水源は水道を使用していた。年間生産量は約60000gallon。ほとんどの工程は手作業で行われていた。
Campbeltown蒸留所は1924年ぐらいに閉鎖された。そしてその後の歴史ははっきりしない。その建物は残っていない。
Dalaruan
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Broad Street |
開 業 | 1824年 | 閉 鎖 | 1922年 |
Dalaruan蒸留所はBroad Street沿いにCharles Colvilleによって建設された。名前はこの地方の古代の名前、Dalruhadhainから来ている。創業者の孫の名前が付けられたDavid Colville社によって運営されていた。初期の共同経営者はDaniel Greenlees。そして1838年からBurnside蒸留所のJohn McMurchyになった。
1885年、Alfred Barnardが訪問した時、David Colvilleは共同経営者とDalaruan蒸留所を運営していた。3棟の穀物倉庫、4つのモルティングフロア、巨大なマッシュタン、7基のウォッシュバッグと3基のポットスティル(それぞれ2,750、1886、850gallon)、5棟のウェアハウスがある、伝統的な蒸留所だった。従業員は16名で年間生産量は112,000gallonだった。
Dalaruan蒸留所は比較的平穏な操業状態だったが多くの他の蒸留所と同様に、1920年代の不況は乗り切れず、1922年に閉鎖された。残されたウィスキーはGlengyle蒸留所のウィスキーと共に1925年4月にオークションで売却された。
その後、建物は取り壊され、1938年にParliament Placeと呼ばれる住宅地となった。
Dalintober
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Queen Street |
開 業 | 1832年 | 閉 鎖 | 1925年 |
Dalintober蒸留所は1832年、John Streetの小さい敷地にPeter ReidとDavid Colvilleによって建設された。創設時の運営はReid & Colville社によって行われていた。1868年に、Kinloch Parkを見渡すQueen Streetの広い敷地に移転された。
1885年、Dalintober蒸留所を訪れたAlfred Barnardは効率的な蒸留所で、その正面からの眺めは素晴らしかったと著書に記述している。3つの穀物貯蔵庫、4つのモルティングフロア、6基の6000gallonのウォッシュバッグ、すべて直火焚きの3基のポットスティルは3293gallonのウォッシュスティル、1073gallonのローワインスティル、そして1066gallonのフェインツスティルという構成だった。Dalintober蒸留所独自の特殊な蒸留方法だったのかも知れない。5棟のウェアハウスは1600樽を格納することが出来る。水源はCrosshills Lochの水道をほとんどの過程に使用していたが予備水源として敷地内に井戸を持っていた。年間生産量は120,00gallonだった。
1919年、Dalintober蒸留所はWest Highland Distilleries社に買収され、最終的に1925年に閉鎖された。建物は取り壊され、敷地は住宅地となっている。
Dalintober蒸留所の敷地に残る古い建物の残骸は蒸留所のものだろうか定かではない。
Glengyle
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Glengyle Street |
開 業 | 1873年 | 閉 鎖 | 1925年 |
Campbeltownで3番目に新しいGlengyle蒸留所は町の絶頂期に、手広く商売をしていたWilliam Mitchellによって設立された。
Alfred Barnardは、Glengyle蒸留所を小さくまとまった蒸留所と記述した。 2エーカーの敷地に1つの穀物倉庫、2つのモルトバーン、6基の6,600gallonのウォッシュバッグ、2基のポットスティルは3100gallonと1860gallon、2,000樽ぐらい保有できる3棟のウェアハウスがあった。水源はCrosshill Lochから取得していた。14名の従業員、1人の保税官がいた。そして年間生産量は90,000gallonだった。
1919年、Glengyle蒸留所はWest Highland Malt Distilleries社に買収され、最終的に1925年に閉鎖された。残されたウィスキーはDalaruan蒸留所のウィスキーと共に1925年4月にオークションで売却された。そして蒸留所は1929年に、Craig Brothers社に売却された。蒸留所それ自身はCampbeltown Miniature Rifle Clubへ数年間、貸し出された。
Glengyle蒸留所は1941年1月にGlen Scotia蒸留所を所有する、Bloch Brothers社に売却された。彼らはGlengyle蒸留所の再建と拡張を計画した。しかし第二次世界大戦が起こり、その計画は立ち消えになった。
1957年7月、Campbell HendersonがGlengyle蒸留所の近代化と再開を25万ポンドで引き受けるために概要計画許可を申し込んだ時、ニュースになったがその計画も実現しなかった。
そして2000年にSpringbank蒸留所を所有するJ & A Mitchell社がGlengyle蒸留所を取得、再建に着手し、2004年3月に正式にオープン。約80年ぶりに操業が再開された。
Glen Nevis
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Glebe Street |
開 業 | 1877年 | 閉 鎖 | 1923年 |
Glen Nevis蒸留所は1877年に建設された町で2番目に新しい蒸留所でGlebe Street沿いに建てられた。創業者はDuncan MacCallum。彼はCampbeltownのウィスキー産業を牽引してきた人物だったが1930年12月に、多くの蒸留所が水源としていたCrosshill Lochで謎の自殺を遂げた。
Glen Nevis蒸留所は当時の最新式設備を導入し、計算された造りで効率よく生産ができる近代的な蒸留所だった。6基の6,000gallonのウォッシュバック、3,200gallonのウォッシュスティル、2,200gallonのスピリットスティル、全部で5,000樽収納可能な2棟の大きなウェアハウスがあった。年間生産量は100,000gallonで、12名の従業員と保税官が働いていた。
1887年にScotch Whisky Distillers Ltdに買収された蒸留所は、その会社が1889年に倒産した後、創業者であるDuncan MacCallum によって買い戻されたが、1896年にScotia蒸留所(現在のGlen Scotia蒸留所)を所有していたStewart Galbraith社によって買収された。そして多くのほかの蒸留所と同じように、1919年にWest Highland Malt Distillers社によって買収された。ウィスキーの製造は1923年に停止された。
Glen Nevis蒸留所は1936年にArdlussa蒸留所と共に新しい会社によって購入され、ウェアハウスだった建物にブレンドと瓶詰の工場が造られた。 現在蒸留所の敷地はArdlussa蒸留所と共に建設会社の作業場となっている。
そしてウェアハウスの一部は残っている。
Glenside
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Mill Street |
開 業 | 1834年 | 閉 鎖 | 1926年 |
Glenside蒸留所は1834年、David Andersonと商店を営む、James Armour、モルト製造業者のJessie Millerによって、町の北側のMill Road沿いに建てられた。1836年にロンドンの銀行家、Joseph Hancockが加わった。しかし最初の会社は成功せず、1844年に他社に売却された。
Glenside蒸留所は1850年にJames Armourと他の2人の共同経営者によって買収され、Glenside Distillery社が創設された。その後共同経営者の変更はあったが1908年に株式会社になった。
第一次世界大戦後、大部分の株式はRobertson社によって取得された。彼らは1926年にGlenside蒸留所を閉鎖し、1930年12月18日に会社は清算された。
Glenside蒸留所はCampbeltownの蒸留所の中で唯一、その水源を近くのAuchalochy Lochから得ていた。また敷地内の井戸もあった。三角形の敷地に建物がくっつくように建てられ、3棟の穀物貯蔵庫、4つのモルトバーン、3棟のピートを焚くキルン、4基の8000gallonのウォッシュバッグ、古いタイプの2500gallonのウォッシュスティルと1400gallonのスピリットスティルがあった。5棟の小さいウェアハウスは1600樽を貯蔵することができた。従業員は12名で年間生産量は7000gallon。強烈にピートのきいたモルトはロンドンやリバプール、グラスゴーで人気があった。
Glenside蒸留所は閉鎖後取り壊され、その敷地は現在住宅地となっている。
Hazelburn
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Millknowe Street |
開 業 | 1825年 | 閉 鎖 | 1925年 |
Hazelburn蒸留所はCampbeltownで最も大きく発展し、成功した蒸留所で1825年、Longrow沿いに建設された。創業者はMatthew GreenleesとDaniel Greenleesの兄弟、Dalaruan蒸留所のCharles Colvillの息子のArchie Colvillだった。創業当時はモルトバーンがLongrowの南端に離れて建っていた。
1845年にHazelburn蒸留所は規模拡大と生産性向上のため、Milknowe Roadの新しい敷地に移転された。新しい場所はジェームスW世の時代に国会議事堂が建てられた歴史上有名な場所だった。同じ頃、創業メンバーの一人、Archie Colvillが退き、代わりにSamuel Greenleesが経営に参加した。
新しいHazelburn蒸留所は大規模な建設が行われた。3つの広いモルティングフロア、3つの広いキルン、9基の6,000gallonのウォッシュバック、蒸留棟には3つのポットスティルがあった。7,000gallonのウォッシュスティルは町で最も大きく、2つの1,800gallonのスピリットスティルは特殊な構造で、ネック部分に冷却水を通す32本のパイプがあった。そして3基の大きなウァームタブがあった。
敷地にある9つのウェアハウスは500,000gallonの貯蔵が可能で、年間生産量は200,000gallon、生産能力はそれ以上と言われていた。従業員は22人と保税官がいた。水源はCrosshill Lochからの水をマッシングに、その他の工程は敷地内の2つの井戸からと工程によって使い分けていた。広い敷地内には中庭や樽製造施設、樽置き場などがあった。
また、経営者の一人、Samuel Greenleesは1880年代にGlasgowに進出し、Osborne Streetのウェアハウスで熟成させるために樽を輸送していた。
Hazelburn蒸留所は第一次世界大戦後の不景気の中、1920年にMackie社に売却された。Mackie社は1924年にWhite Horse Distillers社になるが、1927年にDCLに吸収された。Hazelburn蒸留所は1925年に閉鎖された。大きなウェアハウスはDCLによって使用され、一時期は研究所が設置されたが最終的に1983年に全面閉鎖された。
Hazelburnの名前はSpringbank蒸留所の製品に使用され、今も残っている。日本ではニッカウィスキーの創業者、竹鶴政孝氏が修行をした蒸留所として有名になっている。
現在、一部の建物が残っていて、オフィスとして使用されている。
Kinloch
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Longrow |
開 業 | 1823年 | 閉 鎖 | 1926年 |
Kinloch蒸留所は1823年にLongrow、Lochend Street、Millknowe Streetが交わる角にあった麦芽製造工場を改造して建てられた。創業者はRobert Lambと3人の共同経営者がいた。蒸留所はLamb Colvill社によって運営された。しかし1826年に突然、Robert Lambが死去し、その後をRobert Ralstonが引き継いだ。
Kinloch蒸留所は他のCampbeltownの蒸留所と似ていた。3棟の穀物貯蔵庫、3つのモルティングフロア、3棟のキルン、1基の大きなマッシュタン、8基の7,400gallonのウォッシュバッグ、蒸留棟には3基のポットスティルがあった。1基のウォッシュスティルは2,900gallonの石炭直火焚き。それぞれ1,800gallon、1,700gallonの2基のスピリットスティルは1つが石炭直火焚きでもう1つが蒸気加熱方式だった。合計で3000樽を保有できる4棟のウェアハウスがあり、年間生産量はおよそ100,000gallon。14人の従業員と保税官がいた。水源はCrosshill Lochから、そして敷地内に大きな井戸があった。
Kinloch蒸留所はその後大きな問題もなく操業していたが1918年4月に共同経営者の一人、David Colvillが死去した翌年、West Highland Malt Distilleries社によって買収された。しかしそのWest Highland Malt Distilleries社も1924年に倒産する。
その後Kinloch蒸留所はDavid MacCallumによって買収された。彼は1926年まで操業するがその年の4月6日に樽詰めされたのが最後だった。何らかの事情でKinloch蒸留所を売却できないDavid MacCallumはその敷地を町に寄付した。そして住宅地となった。
David MacCallumはちょうど1930年のクリスマスイブにCampbeltownで死去した。83歳だった。そして彼の名は新しい住宅計画で造られた、敷地を通る小さなストリートに残っている。
そして、蒸留所の敷地にはパブが一件建っていた。
Kintyre
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Broad Street |
開 業 | 1825年 | 閉 鎖 | 1921年 |
Kityre蒸留所は1825年に会社として登録されたが1830年頃まで建設されなかった。そして町の新しいガス会社を使用した最初のCampbeltownの蒸留所の一つだった。当初のオーナーは銀行家、John Beith。彼が1840年に死去してからは、彼の息子、John Beith JuniorとLongrow蒸留所のJohn Ross、Clydesdale BankのJohn ColvilleとBeith, Ross社を作った。しかしそのパートナーシップは1876年に解消され、それ以降閉鎖される1920年まではJohn Ross社の元、操業が行われた。
Kityre蒸留所は小規模な蒸留所で2エーカーの敷地に2棟の穀物貯蔵庫、3つのモルティングフロア、2棟のキルン、1基の大きなマッシュタン、3基の古いタイプのポットスティル、6基のウォッシュバッグがあった。5棟のウェアハウスは大きいもので500樽保有可能で、年間生産量は67,000gallonだった。狭い土地を有効利用するために建物は高くなっていた。
水源はCrosshills Lochから取得されている水道をマッシングに、その他は敷地内の井戸から取得した。1825年から1887年まではLongrow蒸留所と共同で操業された。
他の町の蒸留所と同じく、Kintyre蒸留所は1921年頃閉鎖された。現在、敷地は住宅地になっている。
Lochead
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Lochend Street |
開 業 | 1824年 | 閉 鎖 | 1928年 |
別 名 | Lochhead |
Lochead蒸留所はMcMurchy兄弟によって創設された。彼らはLochead Burn(当時Campbeltownの北西から南東に向かって流れていた小川) にある古い工場とその周辺の住宅などを蒸留所に改造した。一部の建物にはいくつかの不法な蒸留器が隠されていたらしい。
1833年、Lochead蒸留所はWilliam Taylorとその父James Taylorに売却された。James TaylorはMeadowburn蒸留所で石工をしていた。彼らはW.Taylor社を創設し、蒸留所を経営していた。
1885年にAlfred Barnardが訪問した時、蒸留所の設備は優れているが効率の悪い造りだったらしい。2.5エーカーの敷地に4棟の穀物貯蔵庫、4つのモルティングフロア、2棟のキルン、そして町で最も大きなマッシュタンを持っていた。8個の8,000gallonのウォッシュバッグ、3,300gallonのウォッシュスティルと1,800gallonのスピリットスティルは蒸気加熱式だった。年間生産量は111,000gallon、合計3,000樽を保有する5棟のウェアハウスで熟成された。麦芽の乾燥にはピートのみが使用されていた。
1895年、Lochead蒸留所はJ.B.Sheriff社によって買収された。彼らはIslayのLochindaal蒸留所とBowmore蒸留所、そしてジャマイカでラムを製造し、利益を上げていた。1900年から1905年にかけてJ.B.Sheriff社はLochead蒸留所の拡張を行った。
多くの古い作業場は取り壊された。そして広大な4階層の隣接している建物が小さく見えるモルティングフロアが建設された。より大きなポットスティルが導入され、ウォッシュスティル5,000gallon、スピリットスティル2,500gallonとなった。いくつかの新しいウェアハウスが建設された。Saddell Steet近くの最も大きいウェアハウスは1棟で4,000樽の保有量があった。年間生産量は150,000gallonになった。
J.B.Sheriff社は蒸留所の拡張を最も悪い時期に行い、1920年に倒産する。そしてLochead蒸留所はBenmore Distilleries社に買収された。Lochead蒸留所は1928年に閉鎖され、Benmore Distilleries社は1929年にDCLに吸収された。いくつかの建物は10年間程使用され、最終的に取り壊された。
現在、Lochead蒸留所の敷地にはスーパーマーケットがあり、屋根の上にはモルトキルンのような形をした飾りがある。
そしてLochend Steet沿いのウェアハウスは屋根がない状態で残っている。
Lochruan
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Princes Street |
開 業 | 1835年 | 閉 鎖 | 1925年 |
Lochruan蒸留所は1833年から1835年の間に、Johnston社を経営する、RobertとCharlesのJohnston兄弟によってPrinces Streetに建てられた。1867年、彼らはLochruan蒸留所を、既にAlbyn蒸留所を所有しているJohn & William McKersie社に売却した。彼らは蒸留所を建て直し、Lochruan Distillery社を創設して操業した。
新しい蒸留所は、2つの正方形の煙突と高い周囲を囲む壁と共に、2エーカーの土地に建っていた。2つの大きな穀物貯蔵庫、4つのモルティングフロア、2棟のキルン、巨大なマッシュタン、7基の6,700gallonのウォッシュバッグ、古いタイプのポットスティルは、3250gallonのウォッシュスティルと2基の1800gallonのスピリットスティルがあった。麦芽はピートのみで乾燥していた。
5棟のウェアハウスは2000樽以上を格納することができた。年間生産量は85,000gallonで12人の従業員と保税官がいた。水源は町から3km程離れたLochruan(別名Red Loch)から取得していた。
1919年、蒸留所はJames Buchanan社に売却された。彼らは1921年に蒸留所の一部改造に着手したが1925年にDCLによって吸収合併された。そしてLochruan蒸留所での蒸留は停止された。 現在、敷地は住宅地となっている。
Longrow
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Longrow |
開 業 | 1824年 | 閉 鎖 | 1896年 |
Longrow蒸留所はCampbeltownでも古い合法的な蒸留所の一つで、20世紀を迎えることができなかった蒸留所のうちの1つである。ウィスキー製造業者John Rossが2人の銀行家John ColvilleとJohn Beithに財政支援を受けて建設され、運営のためのColville, Beith社が創設された。
1852年、会社名がBeith, Ross社に変更された。そして1876年にはJohn Ross社に変わった。
Longrow蒸留所という名前にもかかわらす、Longrowから少し離れていた。そしてだんだんと周囲に建物が増えて囲まれるように建っていた。ほとんどの工程が手作業で行う古いスタイルで、2棟の穀物貯蔵庫、3つのモルティングフロア、2棟のキルン、6基のウォッシュバック、2基の古いポットスティルがあった。そのポットスティルはAlfred Barnardが見た中で最も古風なものと記述されている。3棟のウェアハウスは600樽の貯蔵が可能だった。
年間生産量は40,000gallon。水源はCrosshill Lochからの水道と敷地内の深い井戸を使用していた。
1886年、創業以来Longrow蒸留所を操業してきたCampbeltownの最年長ウィスキー職人、John Ross氏が死去した。そしてその翌年、Longrow蒸留所はWilliamとJamesのGreenlees兄弟によって買収された。けれども彼らは操業を続けるには難しい問題を見つけたのだろう。拡張と近代化が難しかったのかも知れない。
1896年、Longrow蒸溜所は操業を停止した。閉鎖後のLongrow蒸留所についての記録は少ない。しかし1棟のウェアハウスは現在も残っていて、Springbank蒸溜所のビン詰施設として使われている。そしてLongrowの名前はSpringbank蒸溜所のピーディなモルトウィスキーのブランドとして残っている。
Meadowburn
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Witchburn Road |
開 業 | 1824年 | 閉 鎖 | 1886年 |
Meadowburn蒸留所は1824年に町の南端のWitchburn Roadから少し入った所に建設された。創業者は商店経営者のAlex Kirkwood、息子が後にLochead蒸留所を経営するJames Taylor、Hazelburn蒸留所のMathew Greenlees、そして、数年前まで密造業者にポットスティルを造って供給していた、配管工一族のWilliam Armourだった。
1840年にMeadowburn蒸留所は経営陣が少し変わり、1854年にRobert Colvillによって取得された。彼は1882年ぐらいまでMeadowburn蒸留所を操業した後、閉鎖した。
1885年、Alfred BarnardがCalmpbeltownを訪れた時、Meadowburn蒸留所は既に閉鎖していた。その記録は極端に少ない。1899年発行のOS Mapには使われていない蒸留所と記述されている。
Meadowburn蒸留所の敷地はおそらくBurnside蒸留所と共に乳製品製造工場へ改造するプランに含まれていたのだろう。
現在はCampbeltown Creamery社の工場の駐車場となっている。
Rieclachan
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Longrow |
開 業 | 1825年 | 閉 鎖 | 1934年 |
Rieclachan蒸留所はCampbeltownの失われた蒸留所の中でもっとも長く生き残った。そして最後の年に女性がマネージャーだった唯一のスコットランドの蒸留所として知られている。
1825年、Longrowの北側、Millknowe StreetとRoadingが分岐する所から少し西に入った所に建設された。創設者は蒸留技術者Archie Mithell, 樽職人および麦芽製造業のJames Ferguson、後にTberanrigh蒸留所を創設するAlex Wylie、そしてJohn Harveyの4人。運営はWylie, Mitchell社が行っていた。
Rieclachan蒸留所は小さな要塞のように高い壁と1ヶ所の入り口に堂々とした鉄の門があった。2棟の大きな穀物貯蔵庫、2つのモルティングフロア、1棟のキルン、小型のマッシュタン、7基の5,000gallonのウォッシュバック、2,100gallonのウォッシュスティルと1,600gallonのスピリットスティルがあった。
年間生産量は70,000gallonで、全部で1,100樽保有できる3棟のウェアハウスがあった。水源はCrosshill Lochからの水道を使用し、従業員は10人と1人の保税官がいた。
その大きさと悪い立地にもかかわらず、Rieclachan蒸留所は1920年代を切り抜け、5代目最高責任者のHelen Mitchellと共に1930年代を迎えた。その流れをくい止めることはできず、Rieclachan蒸留所は1934年に操業を停止した。
1936年5月、Rieclachan蒸留所は後方に貸しガレージのある車のショールームになった。同時に穀物貯蔵庫とモルティングフロアのある建物は小売商のMacFarlane & Shearer社に家畜飼料店として使われていた。
現在、Rieclachan蒸留所の敷地はCO-OPのスーパーマーケットが建っている。Rieclachan蒸留所の消滅で20以上あったCampbeltownの蒸留所はわずか2ヶ所になった。
Springside
地 域 | Campbeltown | 所 在 | Burnside Street |
開 業 | 1830年 | 閉 鎖 | 1926年 |
Springside蒸留所は1830年にJohn Colvillと銀行家のJohn Beithによって町の中心地に近いBurnside Street沿いに建てられた。小規模な蒸留所が多いCampbeltownの蒸留所の中でも一番小さかった。
Alfred Barnardの訪問時は小さい土地にいろいろな建物があり、3棟の小さい穀物貯蔵庫とモルティング施設。2棟のキルン、小さなマッシュタン、そして6基のウォッシュバッグ、そして2基のポットスティルは1,200gallonと400gallonで非常に小さい。4棟のウェアハウスは600樽の保有が可能で年間生産量は30,000gallon。水源はCrosshill Lochからの水道を使用していた。
Springside蒸留所は創業以来、Colvill一族が所有し、操業していた。その会社名、John Colvill社が正面のアーチから消えることはなかった。しかし他のCampbeltownの蒸留所と同じく、1920年代に閉鎖された。
蒸留所の建物は長い間、何も使用されなかったが1941年1月にCampbeltownの生活協同組合がお店や作業場に改造する許可を申請した。
現在、敷地はHydro Electricの倉庫とお店になっている。一部のウェアハウスは今も残っている。