Eastern Highland
Auchinblae
地 域 | Eastern Highland | 所 在 | Auchinblae |
開 業 | 1896年 | 閉 鎖 | 1926年 |
Auchinblae蒸留所は1890年代のウィスキーブームの終わりに建てられた。そして最初のうちは成功したが、1920年代の暗黒の時代を乗り切ることは出来なかった。
蒸留所の建物は、本来紡績工場として1795年に町の南西に流れるLuther Waterにかかって建っていた。独自のガス製造所を持ち、町に供給していた工場は1890年代初期に閉鎖した。その工場を蒸留所に改築する計画が町で話し合われた。そして1895年に、町やその周辺の人々200人以上が1ポンドずつ出しあったのを含む20,000ポンドの資本金(後に25,000ポンドに増資)と共にAuchinblae Distillery Company Ltdは、創設された。
蒸留所のデザインはCharles C. Doigに委託された。そして、紡績工場を転換するという彼の計画は大規模な仕事になった。Luther Waterはせき止められ、アメリカ製の水力タービンと発電機が輸入され、工場と所長宅に電力を供給するために導入された。その地区の最良の仕込み水を得るために丘の上の泉、Templebankから蒸留所の上の大きな貯水池までほぼ1マイル、直径3インチのパイプが引かれた。石塀で囲まれた、スレート屋根の建物、そして荷馬車が簡単に蒸留所に近づけるように頑丈な鉄製の橋がLuther Waterに架けられた。
蒸留所のオーナーは安全性を重視した。そして3つの消火栓とホースを蒸留所内の適切な位置に設置した。Charles C. Doigの設計したすべての蒸留所と同じようにモルトキルンにパゴダ屋根があった。そして、その時代の蒸留所らしく近代的な設備を持っていた。大麦やモルト、マッシュタンを空にするためのドラフのコンベアシステム、4基の6,000gallonのウォッシュバック、1,500gallonのウォッシュスティルと少し小さいスピリットスティルがあった。ウィスキーの貯蔵庫は90フィートの正方形だった。初代の所長はOrd蒸留所から迎えられた。
ウィスキーの生産は1896年後半に開始されたと思われる。しかし蒸留所の稼働中の20数年についてほとんど知られていない。しかし有名でないとしても、そのウィスキーは確かに存在した。そして蒸留所は地元の大麦とピートの貴重な販売先だった。
Auchinblae蒸留所は1916年に清算に入った。そして同時期にForgandennyのStronachie蒸留所を買収したMacdonald Greenlees, Williams Ltdが取得した。その会社は最終的にSMDに吸収された。蒸留は1929年7月に停止した。そして1930年、Auchinblae蒸留所は最終的に閉鎖された。Stronachie蒸留所の前の所長であるJames Stevenは引退する前にウェアハウスのウィスキーの売却を行った。
蒸留所の建物の取り壊しはまもなく始まった。1933年、すべての敷地は自動車整備士のJohn Thomsonによって買収された。彼は残っている建物をガレージに変えた。1954年頃までLuther Waterの水力発電設備は使用されていたが現在はせきも取り壊され、タービンだけが残っているという。そして工場の建物も建っているらしい。
Benachie
地 域 | Eastern Highland | 所 在 | Insch |
開 業 | 1822年 | 閉 鎖 | 1915年 |
Bennachie蒸留所は1822〜1824年の間にWilliam SmithによってBennachieのすぐ近くのNether Jericho Farmで始まった。そして1824年末にはAberdeenの新聞にウィスキーの広告が掲載された。蒸留所はMr. Smithの元で約40年順調に操業された。1864年、農場の借地権と蒸留所はJohn Maitlandに渡った。彼は約20年間操業するが、1880年代初期に死亡した。そして両方の借用権は義理の兄弟のWilliam CallanderとJohn Grahamによって取得された。彼らは蒸留所をBenachieと改名し、拡張と改良の工事を行った。
造られたウィスキーは軽く、シンプルなモルトだったという。 それらはあまり知られることなく普通の市場で売っていた。
それからの30年が絶頂期だった。生産量は1880年代中期の年間25,000gallonから50,000gallon近くになり、荷馬車で毎日Insch駅まで、遠くの顧客のためにウィスキーを運んだ。 さらに蒸留所の認可した酒場や食料品販売店でウィスキーが売られた。ウィスキーはInschの会社直営店から2gallonの陶器製の"pig"(広口の陶器製ボトル)と通常のボトルで売られた。1906年頃、2gallonのシングルカスクモルトの値段が35シリングだった。 少なくとも現存している2種類の"pig"があった(残念ながら、両方とも空だが)。そしてScotland中に売られていたと記録されている。
けれども20世紀初期の暗黒の時代はBenachie蒸留所に大きな影響を与えた。そして1913年に蒸留を停止した。
ウィスキーは第一次大戦ぐらいまでは地元のパブや販売店から手に入れることができた。
一族と同僚は1920年に蒸留所の再開計画を始めた。そして2,000ポンドの資本金で会社を仮登録した。しかし、彼らのプランは決して達成されることはなく、最終的に1960年に解散した。
蒸留所の建物は大部分は崩れ落ち、取り壊されたけれども、農場は今でも存在する。そして、よく知っている訪問者には蒸留所であったことがわかるという。
1993年中頃にInverurieのビジネスマンがBennachieというヴァッテッドモルトを売り出した。以来かなりの成功を収めている。"Bennachie"の名は失われたわけではない。
Bon Accord
地 域 | Eastern Highland | 所 在 | Aberdeen |
開 業 | 1855年 | 閉 鎖 | 1910年 |
1820年代のAberdeenは多数の小さい蒸留所の設立が次々と見られた。が、多くは数十年のうちに消滅した。少し続いたのが1853年に閉鎖されたUnion Glen蒸留所だった。翌年、1785年から続いていた、隣接したビール醸造所が破産した。そして、あるグループは2つを結合させることを思いついた。
破産したビール醸造所へUnion Glen蒸留所の設備を移し、1855年にBon Accord蒸留所として開業した。1876年には正式に有限会社となる。
その後は順調に操業し、当時のスコットランド北部では一番大きなポットスティルの蒸留所となった。年間生産量は300,000gallon。 オーナーもまた先見の明があり、すべての生産量を輸出に集中させ、自国の市場やブレンダーには出さなかった。自社のビン詰施設があり、毎週1000本をCock O'The Northへ運んだ。
しかし、1885年には、蒸留所は3回の火事に苦しんだ。何ヶ月間かは生産停止に追い込まれた。そして火事から完全に復旧できず Bon Accord Distillery Co Ltdは解散した。その後、Dailuaine-Talisker Distilleries Ltd によって引き継がれ、North of Scotland蒸留所と改名した。
しかし、新しい会社の元では事業に失敗し、下降線をたどり第一次世界大戦直前に閉鎖された。建物の痕跡は全くわからない。そして一部は住宅地になっている。
Devanha
地 域 | Eastern Highland | 所 在 | Aberdeen |
開 業 | 1837年 | 閉 鎖 | 1915年 |
Devanha蒸留所は最初、ビール醸造所として1820年代初期に創業された。敷地はDee川の海の前の最後のカーブの北西部で、30年後に建設された鉄道と川によってはさまれていた。
1837年にオーナーは蒸留設備を追加することを決定した。そしてDevanha Distillery Companyを創設した。蒸留作業は1852年に1910年まで操業する William Black & Co によって引き継がれた。
敷地はAberdeen市が湾岸エリアから川を遡る立派な道路(現在のRiverside Drive)を建設することを決めたときに、さらに縮小させられた。けれどもそれは蒸留所へのアクセスを改善した。
Devanha蒸留所の唯一入手できる記録はAlfred Barnardの記述がある。彼は御影石でできた建物、整った設備、4棟の保税倉庫、25馬力の蒸気エンジン、メインの建物の中に2基の大きなスティル、そして他の建物の中に蒸留所の初期からの2基の小さな昔のスティルがあると述べている。水源は町の水道から、冷却と精留用の水はDee川から取っていた。年間の生産量は220,000gallonで近代的なウェアハウスは6,000樽を保有することができた。
ライバルのBon Accord蒸留所と似ていないこともないが、Devanha蒸留所はエドワード7世の時代に衰えていった。そして1910年新しいオーナーによって買収されたが、1915年閉鎖された。
建物はほとんどが改造されたが今でも建っているという。そして鉄道からは"Devanha Distillery"の文字は今でもスレート屋根の上に見えるらしい。
Glenaden
地 域 | Eastern Highland | 所 在 | Old Deer |
開 業 | 1882年 | 閉 鎖 | 1915年 |
Scotlandで最も小さい蒸留所の1つであるGlenaden蒸留所は農場発展型の蒸留所として、すでにBiffie Farmの近くでビール醸造所を操業していたMessrs Milne & Co. によって1845年に設立された。
1882年に新しい操業者のGeorge J. Wilson & Co. に売却、そして今度は世紀の変わり目頃にT. Yelton Ogilvie & Coに売却された。
1900年代初期の多くの小さい蒸留所(大部分が農場から発展した蒸留所と思われる)は、酒税の増加と需要の衰えの影響を受け、さらに第一次大戦でそれ以上に状況が悪化した。
Glenaden蒸留所は1915年に閉鎖された。多くの記録は残されていないが、地元産の大麦を使用し、水源はBiffie Springから得ていた。最盛期の生産量は年間約12,000gallonだったという。
Glen Coull
地 域 | Eastern Highland | 所 在 | Justinhaugh |
開 業 | 1897年 | 閉 鎖 | 1929年 |
Glen Coull蒸留所はDundeeの北約20kmの所にある町、JustinhaughのRiver South Eskの辺にあった。近くにはForfar and Brechin Railwayの駅があり、輸送に使用されたと思われる。
蒸留所は1897年に穀物工場を改装して建てられた。 Dundeeでワインやウィスキーを販売するGeorge Willsherと、北アイルランドのLimavadyでウィスキー製造を行う、George Duncanのパートナーで操業が開始された。
蒸留所のマネージャはJ.A.Gordonで彼は最後まで蒸留所で働いた。 Willsher氏はMarkinchのCameron Bridge蒸留所を買うことを望んでいたが水源利用の権利が得られなかったのでGlen Coull蒸留所を購入した。しかしウィスキーブームの終了により経営は悪化し、Duncan氏が経営から手を引いた。
George Willsher氏はGlen Coull蒸留所を10年間以上操業したが1913年に破産。その後、EdinburghのDean蒸留所を経営していたGeorge Duncan氏へ売却され、彼によって1927年まで操業された。
Glen Coull蒸留所は1930年代初期に元の穀物工場に転換された。現在も一部の建物が残っている。 George Willsher氏はその後も商売を継続し、彼の会社のブランド、"Black Bull"はDuncan Taylor社によって買収され、現在も残っている。また彼の孫が1904年にボトリングしたGlen Coullのシングルモルトを所有していたらしい。
Strathdee
地 域 | Eastern Highland | 所 在 | Aberdeen |
開 業 | 1821年 | 閉 鎖 | 1945年頃 |
Strathdee蒸留所はAberdeenの3つの有名な蒸留所のうち一番小さかった。しかし他の2つよりも30年あまり長く操業した。
1821年にHenry Oggによって設立された。彼は既にFerryhill Brewery(1855年にBon Accord蒸留所になったと思われる)を操業していた。
彼の息子が最終的には引き継いで、1895年まで操業した。その後、Aberdeenの実業家David Walkerが取得し、それから20年間操業を続ける。
1915年にはStrathdee Distillery Co が組織された。1920年にはRobertson and Coによって買収された。
そしてそれから1925年にGlasgowのTrain & McIntyreによって買収された。その会社は1930年代にNational Distillers Of Americaの一部となる。
Train & McIntyreと才能のあるJoseph Hobbsの努力を経て、National Distillers Of Americaは両大戦の間の年に一連の蒸留所を手に入れた。 Bruichladdich蒸留所、Benromach蒸留所、Glenkinchie蒸留所、Fettercairn蒸留所、Glenury Royal蒸留所、Glenesk蒸留所。 いくつかは残っているがStrathdee蒸留所は運がなかった。すべての蒸留所と同じように第二次大戦中は操業を休止した。 しかし1945年には再開されなかった。
Alfred Barnardは外面的には時代遅れだが、今まで見てきたのと同じぐらいよい設備だと認めた。年間50,000〜55,000gallonを生産した。 ほとんどすべてをブレンドかLeithとLiverpoolの代理店を通じて輸出していた。水源は近くの小川を使用していた。 戦後、いつ取り壊されたのかははっきりしない。しかし、跡地は現在、車庫と自動車のショールームとなっている。 Bon Accord蒸留所のように、Strathdee蒸留所はほとんど足跡を残さず消滅した。