Southern Highland
Auchnagie
地 域 | Southern Highland | 所 在 | Tulliemet |
開 業 | 1827年 | 閉 鎖 | 1912年 |
別 名 | Tulliemet |
Auchnagie蒸留所はPitlochryの町から南東に7km程下ったTulliemetの町にあった。この周辺には農場が運営しているいくつかの小さな蒸留所があった。大麦をそのまま売るだけではなく加工品としてウィスキーを製造し、地元の酒場やお店に供給していた。しかし産業構造の変化に伴ってほとんどが失われている。
Auchnagie蒸留所は1812年ぐらいに建設されたと思われる。しかし当初から不安定な経営状態で所有者が目まぐるしく変わっている。James Duff(1827-33), Duncan Scott(1860-62), Forbes & Co.(1867-78), Alex McLaughlan(1882), John McLaren(1882-84), Peter Dawson(1887-88)そして最終的に1890年にJohn Dewar & Sons Ltdによって買収された。彼らは閉鎖する1912年まで操業し、その後、取り壊した。
Peter Dawson氏の短い保有期間にAlfred Barnardの訪問があった。しかし不運にも彼は夏に蒸留所を訪れ、またその年の夏は暑くて蒸留所は操業していなかったので彼の蒸留所に関する記述は非常に短い。
年間生産量は86,300〜109,100L、ウェアハウスの保有量は181,800L、仕込水はAuchnagie Hill、大麦は地元の農家、ピートはLoch Broomから採取されていた。
蒸留所の小さな残骸、ウェアハウスの壁らしきものは今も残っているらしい。
Ballechin
地 域 | Southern Highland | 所 在 | Ballechin |
開 業 | 1810年 | 閉 鎖 | 1927年 |
Ballechin蒸留所はPitlochryの南約5kmのAberferdyへの道路沿いにあった。近くのAuchnagie蒸留所やGrandtully蒸留所と同じく農場が運営する年間生産量81,800Lの小規模蒸留所だった。
蒸留所は1810年頃に建設されたと思われる。その操業は順調とは言えず、度々所有者が変わっている。Peter Kennedy(1818-19), James Robertson(1821-30), George Robinson(1833), それから1835-75年まで長く所有したRobert Kennedy。彼らのすべては蒸留所の創業者の親戚や知人だった。
Ballechin蒸留所は1875年に初めて創業者と無関係のRobertson & Sonがオーナーとなった。彼らは順調に操業を続け、第一次世界大戦前の数年まで行った。大戦後、1923年に新しいオーナー、William Roseの元に再開したが最終的に1927年頃に閉鎖された。
William Rose氏は1930年代初めに死去したため、Ballechin蒸留所はKirkcaldyの農場経営、織物メーカーの経営者、Robert Wemyss Honeymanによって買収された。彼は蒸留所を再開させる意思はなく、保管されているウィスキーを1932年末からに売却しはじめた。ちょうどアメリカの禁酒法が解除される時期と重なってよく売れたらしい。
いくつかの建物は今でも農場に使用されている。
Grandtully
地 域 | Southern Highland | 所 在 | Aberfeldy |
開 業 | 1825年 | 閉 鎖 | 1910年 |
Grandtully蒸留所は90年ぐらい存在した、UKで最も小さい合法的な蒸留所だった。平和な時代でさえ、生産量はわずかに年間22,700L。 今日いくつかの大きなグレーンまたは複合の蒸留所の1日の生産量よりも少ない。 それゆえに1909年のLloyd Georgeの評判が悪い増税の後でつぶれた蒸留所に含まれていたことに驚くことはない。
Grandtully蒸留所はおそらくすべてのことが手による小規模な本物のHighlandの蒸留所に最も近いことだった。 Alfred Barnardはそれを今までに見た中で最も小さく、最も進歩の遅い蒸留所と記述した。 しかしそのような小規模で未発達の洗練されていない方法は、本当のHighlandの"Usque Beatha"を得る唯一の方法だった。 そしてウイスキーが優れていたと多くの人が言うのも、もっともだ。 さらに、Alfred BarnardはGrandtully蒸留所のウィスキーは地元の議員を含むすべての地域の実力者によってほとんど完全に先を争って取られた。
蒸留所はGrandtullyから3マイルのCultilloch Burnの側に1820年代初期に建設された。そして多くの蒸留所と同じように多くの所有者、操業者の手に渡った。 Andrew Campbell & Co (1825年)、John Kennedy & Co (1826年)、William McFarlane & Co (1827〜32年)、Alexander Duff (1832〜33年)、そしてJohn Stewart & Co (1833〜34年)。 それからJames Thomsonの手に渡った。そして1837年から第一次大戦が始まる頃の閉鎖まで、事実上Thomson一族の手にあった。
多くの農場的蒸留所と同じように、それは大きな財産の一部だった。財産の内容としては、成功している蒸留所を持っていることが極めて幸運だった。
Isla
地 域 | Southern Highland | 所 在 | Perth |
開 業 | 1851年 | 閉 鎖 | 1926年 |
1700年代後半から、River Tayを横切ってBridgendとPerthを結ぶ橋の近くにClockserrie(またはClockserie)と呼ばれるビール醸造所があった。それはおそらくKinnoull Hillの斜面を流れ落ちてRiver Tayの支流へと流れ込む小川がおそらくClockserrieと呼ばれたためにそこにあった。
そこの責任者、Thomas Mclean Taylorは不景気によって倒産し、1839年に引退した。1エーカーの敷地にある醸造所は1840年2月に売りに出された。新聞の告知には、
"ビール醸造所、蒸留所、骨粉工場に最適"
"安定したよい水源あり"
とあった。
それから、その醸造所はAlexander Forbesによって獲得された。そして1851年にClockserrie蒸留所としてスタートした。その後、70年間はForbes一族によって操業された。最初にAlexanderが、それから彼の息子John、そして彼の孫のSamが引き継いだ。
正確にいつ、それがIslaに改名したのかわからない。しかし、決してとても大きくなかったけれども、長い間蒸留所は成功し、発展していた。Alfred Barnardが訪れたとき、2基のウォッシュスティルと2基の小さいスピリットスティル、それらのウォームコイルは、敷地を通って流れる小川の水によって冷却された。一方で、仕込み水はRiver Tayのかなり上流の水を利用していた。と記録した。年間生産量は136,000Lだった。
Forbes一族は蒸留所と共に繁栄した。徐々に隣接したコテージや建物を購入した。そして最終的には近くの小規模な農場に引っ越した。印象的な大邸宅があったという。
第一次大戦の間とその後、Forbes一族は不景気の打撃を受けた。そして蒸留所は1920年、ブレンダーの組合によって作られたTay Distillery Company Ltdによって買収された。しかしその会社も1923年、清算に入った。そして新しい会社、Isla Distillery Ltdによって引き継がれた。しかし事態は好転せず、蒸留所は1926年操業を停止した。数年間、おそらくは第二次大戦まで、ウェアハウスはPerthのWright's Breweryによって貯蔵と流通のために使用された。いったんそれが中止したら、建物は空になった。そして数年間放置された。そして結局は破壊された。
三角形の敷地は現在、あひる達の休息所でもある小さな川がくねくね流れる小さな公園となっているという。
Stronachie
地 域 | Southern Highland | 所 在 | Forgandenny |
開 業 | 1900年 | 閉 鎖 | 1928年 |
Stronachie蒸留所は1890年代、Messrs Alexander & Macdonald によってForgandenny地方行政区の孤独な峡谷、ちょうどPerth-Kinrossの境界線の北に建設された。Slungie HillとDochrie Hillの間を通るForgandennyからMilnathortへの道路に位置していた。原材料や蒸留所からのウィスキー樽の運搬時に使用していたが最寄り駅のMilnathort駅(かつてのFife and Kinross Railwayの駅。現在、この線はない)までの6マイルの道のりは天気の良い時でも不十分で悪い時はほとんど通行できなかった。
Stronachie蒸留所は建設されてから、約30年間操業した。といってよかったり悪かったりしたというわけではない。Alexander Macdonald は蒸留所を1907年に、業界の有名な人物の一人である Sir James Calderに売却した。彼の会社はBo'ness蒸留所(グレーンウィスキーの蒸留所)を所有していた。第一次大戦後、Sir JamesはさらにDalwhinnie、Glendullan、Auchinblaeの蒸留所を手に入れた。しかし、彼とその会社は最終的には1900〜30年の暗黒の時代によって衰退し、最終的には4つの蒸留所といろいろな他の資産すべてを1926年、DCLに売却した。蒸留所はSt James Export Company Ltdに譲渡された。
Stronachie蒸留所は早くから、蒸留所とMilnathort駅の間の輸送に蒸気エンジンによって動くトラクターを導入していた。しかし堅いタイヤで道路の損傷がひどかった。その問題は1920年代、5マイルの軽便鉄道がStronachie蒸留所から、Milnathort駅から約2マイルはなれたSyme一族が経営するSeggie(またはMeikle Seggie)農場へ建設された時、解決した。
Scotlandで最も長い蒸留所私有の鉄道は、既にある道路の西側の堤防の上に建設された。列車は特別注文のガソリンエンジンのトラクターによって牽引された。ソリッドタイヤの車輪が軌道をまたがり、線路からそれないようにその前にレールの上を走るボギー台車がボルト止めされた。
Seggieに到着すると、トラクターは列車とボギー台車から切り離され、樽は道路を動く荷車で運ばれた。そしてトラクターはそれをMilnathort駅まで牽引した。そのシステムは空の樽や石炭、その他原材料をMilnathort駅からStronachie蒸留所まで運ぶためにも使用された。
しかしなぜ、その線路はMilnathort駅まで拡張されなかったのか。そうすれば、Seggieでのやっかいな作業はなかっただろう。そして蒸留所閉鎖後、鉄道がどうなったのだろうか。
何かStronachie蒸留所とわかるものは乏しい。蒸留所は道路の東の平らな土地に建っていた。コテージは道路の西側のSlungie Hillの急勾配の斜面に建っていた。水はChapel Burn の支流をせき止め、水路を作り、最後にパイプで取得していた。ピートは近くで蒸留所の人間によって掘られた。そして大麦は地元の農家(Calderを借りた)と輸入品の両方を使用していた。
Stronachie蒸留所は1930年頃に取り壊されたと思われる。現在、残っているものはほとんどない。ほんのわずかに低い壁と石の道があるらしいが蒸留所を知っている人でさえ、見つけることは困難だという。
Tomdachoille
地 域 | Southern Highland | 所 在 | Pitlochry |
開 業 | 1900年 | 閉 鎖 | 1928年 |
Tomdachoille蒸留所は農場が運営する小規模蒸留所で、Pitlochryから3km程南東に下ったRiver Tummelの西側の土手に建っていた。この地区で数か所の蒸留所を持っていたDuff家によって操業されていた。Auchnagie, Balnacraig, Grandtully, Logierait, Moulinなどの蒸留所は19世紀の間、すべて彼らの名で登録されていた。
1819年の記録では年間生産量15,000L、520Lのウォッシュスティル、220Lのスピリットスティルとなっている。
1870年代終わりまでに小さな農場蒸留所は産業構造の変化についていけず、ほとんどが閉鎖、廃業している。そしてTomdachoille蒸留所は1878年に閉鎖された。
その2年後、Duff家はGlenlossie蒸留所を建設し、近代的なウィスキー製造を開始したが19世紀末のウィスキーブームの終わりとそれに続く暗黒の時代を乗り切れず、1919年にDCLに売却され、Duff家の会社は1930年に清算された。
Tomdachoille蒸留所は閉鎖後、近くの農場の倉庫として使用された。1950年代頃には酪農にも使用されていたが残りの1900年代は見放された建物だった。
ウィスキーライター、Ian Buxtonは2004年4月にTomdachoille蒸留所と近所の建物を購入した。そして蒸留所を宿泊施設に改造する計画を立ち上げたが諸事情により実現はしなかった。
その後、新しいオーナー、Andrew Thomsonは、2014年から建物の修復を始め、小規模蒸留所のオープンを進めているという。